2,3カ月前の新聞の読書欄に、17歳で自死した天才詩人として長沢は紹介されていた。昭和24年6月に彼女は亡くなっている。私(御坊哲)が生まれたのはその年の10月である。生きていれば私をよく可愛がってくれた叔母と同い年である。なにか因縁めいたものを感じてこの本を読んでみる気になったのだが、正直に言うと、読み通すにはかなり苦痛が伴った。天才はなかなか理解しがたいものである。
副題には「友よ私が死んだからとて」とある。彼女の書きためた詩と友人の高村瑛子さんに宛てた書簡を集めたものである。「私は死ぬために生まれてきた。」というように、彼女の文章のいたるところに死への意志がちりばめられている。形状のし難い「激しさ」と幼い理屈っぽさが同居していて、生硬さを感じさせる。文学者として未完成なのだろう、もっと長生きして成熟した作品を残して欲しかったと切に思う。
私は生きていようと努力した。努力しながらいつもズルズルと死ぬことばかり考えていた。
私が生きていられるために、私は私の魂を必然にしばりつけ、無形にしろ有形にしろ死への不可能性をを確実に私自身のものとしなければならなかった。そのためにはそのせいの必然、その死への不可能性を最も肉体的に具体的に生活そのものとして密接なものとしなければならなかったのだ。
私こそこの激しいたたかいの中にあって誰よりも深く生を愛したのではないであろうか。しかし私という人間のこの弱みは生を愛すること以前のもので、到底この戦いは生きることのたたかいの範疇に入らないか。
彼女の母親は彼女が4歳の時に亡くなっている。裕福な養家に引き取られ何不自由なく育てられたらしいが、このことが彼女の精神形成に影響を与えているのは間違いないだろう。それと、日本の敗戦は彼女が高等女学校3年生の時、彼女は15歳の時であった。もっとも多感な思春期と激動の時代が重なっている。このような状況が早熟な知性に安定もたらすはずがない。
自分を規定する能力を持たぬ人間は、自己の生存をも否定しようとする正反対の必然性に足を取られるらしい。
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死から離れようとしたたたかいの中では、死を自分と対等の立場に置くことによって強く死を意識しなければならない。
理屈っぽく見える言葉遣いは実は全然論理的ではない。哲学的に言うなら、自分で自分を規定することなどできないし、「死を自分と対等の立場に置く」という表現は明らかにカテゴリーミスマッチだ。おそらく自分の中でうごめく情動を整理しきれていないのであろう。まだ17歳の少女であることに鑑みれば、それも仕方ないことだと思う。
しかし、次のような官能的な詩を書く女性でもある。
乳 房
白い乳房のひそやかにうずく
初夏の胸寒い夜
幼い指で若さをかぞえてみる
ああ遠い荒原に足音がきこえ
もたらされるものは
甘いやさしい夢ではない
(以下省略)
正直言って、彼女の詩はあまり好きになれなかったが、彼女の作品の中で何度か出てくる、「お前めくらでぴっこの娘よ」というフレーズが、頭から離れなくなってしまった。もう少し長生きすれば大化けしたような気がする。
(省略)
敗走の群れは泉にかくれ
私の水路を断ってしまったが
ころがりまろびお前走り行く
お前めくらでぴっこの娘
一体彼女は何から逃れようとしていたのか、もし彼女が死なずに今生きていたとしたら、89歳の彼女にそのことを是非尋ねてみたいものだ。
彼女も歩いたであろう桐生の街角。この近辺に坂口安吾が住んでいたこともある。