禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

純粋経験に関する異議

2017-01-14 19:22:08 | 哲学

「善の研究」を読んでいて当惑するのは、純粋経験が一体何を指しているのかがよくわからないということである。純粋経験というからには、当然純粋経験でない経験がなければならないはずだが、この本を読んでいると、純粋経験でない経験というものがあるのかという疑問が湧いてくる。

≪経験するといふのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋といふのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいふのである。≫

上の文章は「善の研究」の本文、第一編第一章「純粋経験」の冒頭の部分である。純粋経験についての意味を簡潔明快に述べている。この言葉通りだと、純粋経験の世界というのは無念無想の世界ということになる。

そして、これほど明快に定義されているにもかかわらず、本文中には純粋経験に対する説明が何度も出現する。その説明の際に必ず伴うキーワードが「統一」という言葉である。例えば次のような表現がある。

≪それで、いかなる意識があっても、そが厳密なる統一の状態にある間は、いつでも純粋経験である、すなわち単に事実である。これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。≫(P.24)

うどんを無心に食べているときに味わっているうどんの味は純粋経験である。しかし、「ここのうどんはうまいなぁ、ひょっとしたら河内屋のうどんよりうまいかも知れん。」と考えたりするのは純粋経験ではないと言っているように受け取れる。これだと思惟は明らかに純粋経験ではないことになる。しかしこの文のすぐ後に不可解な説明が続く。

≪しかしこの統一、不統一ということも、よく考えてみると畢竟程度の差である。全然統一せる意識もなければ、全然不統一なる意識もなかろうすべての意識は体系的発展である。瞬間的知識であっても種々の対立、変化を含蓄しているように、意味とか判断とかいう如き関係の背後には、この関係を成立せしむる統一的意識がなければならぬ。≫

先に「そが厳密なる統一の状態にある間は…」と言っておきながら、「統一、不統一ということも程度の差である」と言ってのけるのは、およそ哲学者らしくない言葉使いである。冒頭における純粋経験に対する定義が簡潔明快である分、このような微妙な言い回しには違和感がある。「統一」ということばを、最初は精神統一のような意味に、後には単なる統覚作用のように、というふうに多義的に使用している。要は曖昧なのである。

目の前をビキニの美女が通り過ぎたとする。思わずその豊満な胸元に見とれてしまった。その時私が感じていた感慨は純粋経験か否か? 西田が生きておれば直接聞いてみたいと思う。私はもちろん、それは純粋経験であると考える。経験を純粋か純粋でないかを区分することにはあまり意味がないように思うのである。

おそらく西田は、仏教における『あるがまま』世界を把握する視点というものを取り上げたかったのだと推測する。次の文章をもう少し検討してみたい。

≪これに反し、この統一が破れた時、即ち他との関係に入った時、意味を生じ判断を生ずるのである。≫

先にも行ったように、これだと思惟は純粋経験ではないということになるのだが、西田は、背後に潜在的統一作用が働いていれば思惟も純粋経験であるとのべている。しかし、この「潜在的統一作用」がなんであるかを西田はきちんと説明していない。それを統覚作用であると見るならば、潜在的統一作用は常に働いているのであって、経験はいつでも純粋経験である。意味を生じ判断を生ずるときも統一が破れることはない。

コペルニクスはいろんな観測結果を取りまとめ計算をしている時、コペルニクスは純粋経験のただなかにいる。そしてついに「地球が動いている」という結論に到達したとき、はたしてそれは統一が破れたというのだろうか? もちろん、「地球が動いている」というのは意味であり判断であるが、「地球が動いている」と考えていること自体は経験であり、コペルニクスは依然として純粋経験の中にいると見るべきだろう。

仏教における世界把握は「あるがまま」であり、言葉による再定義は仮のものである。ここで西田は勘違いしたのだと想像する。一切が空であるとすれば、どのような命題も仮のものに過ぎない。天動説も地動説も仏教哲が幕から見れば、同じことを別の言葉で表したに過ぎないものである。そういう意味で思惟の結果である命題を世界観として採用することはできないのである。なので、世界を再解釈するような思惟を純粋経験とはしたくなかったのだろう。

しかし、何を思惟しているかというその内容で、思惟を純粋経験かそうでないかを分けることが出来るのだろうか?

≪思惟には自ら思惟の法則があって自ら活動する。≫ (P.30)

のであれば、思惟は思惟であって、恣意的にその内容によって区別できないのは当然ではなかろうか。

私個人は西田の純粋経験の定義は破綻していると見るしかないと考えている。あなたはどう考えますか?

江の島大橋からの富士山

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2017-01-15 02:00:38
余の純粋経験というものは単に静止的直観の如きものではなくして、活動的発展である。
余が純粋経験の根本的性質とした統一は
単に静止的直観的統一ではなくして、
活動的自発自展的統一である。
余の統一といふことには、活動的発展というふことと離すことのできない意味があるのである。
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