禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

自分で何を言っているか分からない時がある

2022-10-29 17:04:40 | 哲学
 ヴィトゲンシュタインによれば「哲学上の問題のほとんどは言語に対する無理解からきている」らしい。彼の投げた一石はやがて「言語哲学」となって20世紀後半の哲学界を席巻することとなった。

 自分の言葉を反省するのはとても難しい。私たちは通常言葉で考えているので、言葉そのものが思考であるという思い込みからなかなか抜けられないのである。なにか言葉として発した時点で何かが言えた気になってしまうのである。例えば、次のような言葉はどうだろうか?

 「ビッグバンによって宇宙は誕生した。それ以前には空間も時間もなかった。」 
 
 「空間も時間もない」と訳知り顔に言ってしまうことに問題は無いのだろうか? あなたは「空間も時間もない」事態を想像できるだろうか? 無理やり想像しようと思っても、ただの暗黒を想像するのがオチであると思う。しかし空間が無ければ暗黒も真っ白もないはずである。それに「それ以前」と言っているが時間がないなら、そういう表現も適切ではないような気がする。ビッグバンは現在の宇宙の状態から数式によって推論した仮説である。矛盾のない数式で表現される世界であるからには「空間も時間もない」状態はそうした数式群として把握されるしかない。そこで言われる空間や時間に対して日常的な感覚を適用すべきではない。
 
 ヴィトゲンシュタインは、人がある言葉の意味を理解しているかどうかということについて一つの基準を提示している。それはその言葉がどういう場合に正しくてどういう場合に正しくないかを知っているかということである。簡単な例を挙げてみよう。「雪は白い」という言葉の意味はおそらく誰でも分かるはず。雪が実際に白ければ「雪は白い」という言葉は正しいし、もし雪が黒かったりすれば「雪は白い」という言葉は間違っている、ということは誰にでも分かる。しかし、次のような言葉はどうだろうか。

  「すべてのものの運命は既に決定している」

 ニュートンが万有引力の法則を発見して以来、人間の精神活動も含めてあらゆる事象は物理法則に従って動いているだけではないかという考えから、哲学愛好家の間でも「決定論」というものが取りざたされるようになってきた。決定論を支持するのは自然法則を全面的に信じる唯物論者だと思うが、最近は量子力学の不確定性原理により非決定論の方に鞍替えする人も多いようだ。最新の物理学の研究結果に形而上の問題が左右されるというのも奇妙な感じがするが、ここはやはり「すべてのものの運命は既に決定している」という言葉がどのような場合に正しいと言えるのかを考えてみるべきだと思う。 その言葉が正しいと言えるためにはどういう条件を満たせばよいだろうか? 「あらゆるものの運命が既に決まっている」と言えるためには、あらゆる(任意の)ものの運命を言い当てることが出来れば良い。逆に、それを言い当てられないのであればその言葉が正しいことを証明することが出来ない。
 
 人間精神の活動まで含む未来を言い当てるには、予測はどうしても厳密でなくてはならない。しかし、そんなことは原理的に不可能である。例えば、あらゆる要素を超巨大コンピューターに入力して未来予想をするにしても、そのコンピューターの稼働自体がこの世界の中の事象であるから、それを予想の為の要素として入力しなければならないという、自己言及としての循環が生じてしまう。それではとうてい厳密な未来予想は不可能である。「すべてのものの運命は既に決定している」という言葉の真偽を検証する手段を知らない。というより、検証する手段そのものが原理的に存在しないのである。ヴィトゲンシュタインなら「すべてのものの運命は既に決定している」という言葉は命題としてナンセンスであると言うだろう。

 ということは、「運命は決定している」という信念を持とうが、「運命は非決定である」という信念を持とうが、なにも変わらない。いずれにしろ、本人は自分がどのような信念を持っているかを分かっていないのである。運命が決定しているか否かという命題はいささかもこの世界を規定することはない。情報としてはなんの意味もないのである。念のため言っておくが、「運命は決定している」と信じているからといって、崖上から転がり落ちてくる石を避けようとしない人はたぶんこの言葉の意味を間違えて解釈している。決定論者であろうと非決定論者であろうと、ンセンスな信念に従って世界に望む態度を変えてはならない。決定論者と雖も、目の前に見えている危険に対しては自らの意思で避けるべきである。

 このような観点から、無門関第二則「百丈野孤」(<==クリック)の公案を検討しても面白いかも知れない。ヴィトゲンシュタインは不思議な人で、禅者とはかけ離れた生き方をした人なのだが、彼の言うことは妙に禅味を帯びている。

みなとみらい21(横浜市)

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