禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

自然〈じねん〉について

2016-12-21 11:37:40 | 仏教

以前、「仏教は道徳法則を導出する原理を持たない」という記事を書きました。「一切皆空」が根本原理であるから、他の宗教のようにロゴス(言葉)による倫理規定というものを立てるわけにはいかないのです。しかし、倫理の伴わない宗教というものは「いのちのない生き物」というのと同じような意味です。では仏教における倫理の源泉は何か?

釈尊の教えは非常にシンプルです。それは「執着してはならない」という一言に集約されるのではないかと思います。色即是空であるならば、自我さえも仮象に過ぎない。すべての邪悪なものは、自我を実体であると誤認して我欲に執着するところから生まれる、と釈尊は考えたのです。

坐禅というのは自己が無自性であることを確認する作業であります。無自性であればそこに執着すべきなにものもないということを知るのです。執着すべきなにものもなければ、そこになんらかのはからいや私心というものもない。このような心の状態を自然(じねん)と言います。

自然(じねん)はもともと仏教用語で「はからいのない」という意味です。本来は山川草木の意味は含まれていませんでした。明治時代に、nature の訳語とされた時に、現在の自然(しぜん)の意味になったのです。

仏教諸派は例えば禅宗と浄土教のように、形態的には実に多様ですが、この自然(じねん)というところで一致しているはずなのです。以下に親鸞聖人の言葉を引用します。

≪弥陀仏は自然のやうをしらせむれう(料)なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰(あれこれ論議し、詮索すること。)すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。≫ (自然法爾章より)

「弥陀仏は自然(じねん)のありようを知らせる料である。」 ぼくには古文解読の能力はあまりないので間違っているかもしれないけれど、ここの「料」という言葉遣いは「道具」とか単なる「媒介」のようなニュアンスがして、門徒の方には叱られるかもしれないけれど、親鸞は既に阿弥陀信仰から逸脱していて、ここで述べていることはほとんど禅宗と変わらないような印象を受けてしまいます。

阿弥陀信仰が一神教に例えられて、浄土真宗はキリスト教によく似ていると言われるけれど、ぼくはやはりそれは違う、浄土真宗は正真正銘の仏教であると言いたいと思います。

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