禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

神秘とは、世界があるというそのことである

2018-12-26 17:24:49 | 哲学

私達はなぜか疑問を持つ。なぜかどのようなことについても理由があると信じている。だからつい問うてしまう。「なぜ世界はこのようなのだろう?」とか「なぜ私はここにいるのだろう?」とか‥‥。

問題は、そのような問いに対して、どういう回答を期待しているかである。おそらくどんな答えが返ってきても、あなたは満足しない。「この宇宙ができたのはピグ・バンがあったからだ。」とか、「お父さんとお母さんが結婚したからあなたは生まれた。」などと聞かされても、おそらく何もわかった気がしないはずだ。根源的なことについては、なにも分からないということは問を発する前から分かっている。どのような回答を期待しているか自分でも分からない、というのは実は問いを発している自分自身が、なにを問うているかが分かっていないのだ。「なぜ世界はこのようなのだろう?」と疑問を持ったところで、この世界がどのようであれば納得するというものでもない。ウィトゲンシュタインは「論理哲学論考」で次のように述べている。

【 神秘とは、世界がいかにあるかではなく、世界があるというそのことである。】  (6.44)

世界がどのようにあるかについての理由についてとりあえずの説明は可能かもしれない。しかし、「世界があるというそのこと」については根源的な分からなさがある。それはそのまま自分自身の存在の不可解さでもある。

「理由がない」つまり存在の必然性が分からない。あまりにもわからなさすぎる偶然性に人は耐えきれない。サルトルの「嘔吐」の主人公ロカンタンは、あるとき存在の偶然性に気づき、マロニエの木の根を見て吐き気を催す。世界がとてもグロテスクなものに見えたのである。存在の理由をこの世界の中に求めても無駄である。無常の世界は変転するだけで、つねに過渡的であり不完全かつ不安定であり、その完成形・あるべき姿を示唆しない。

しかし、これは奇妙な話でもある。我々はなぜ「なぜ?」と問うのだろう。考えなくてはいけないのはその問いかけの真の意味である。何を求めているか分からないまま訊ねても、それは意味のない質問である、その時自分は自分の質問の意味さえ理解していない。惰性で「なぜ?」と言うべきではない。この世界の由来は到底我々の経験の及ぶ範囲にはない。釈尊はそのような事柄については『無記』であるとしたのである。その意味を問おうとしても問うことはできない、疑問を言葉にしたとしても、実はその疑問の意味を我々は理解していないからである。ウィトゲンシュタインはそれを「語りえぬこと」と表現した。「論理哲学論考」の最後は次の言葉で締めくくられている。

 【 語りえぬことについては沈黙すべし 】 (7.0)

新宿 ゴールデン街

 

 

 

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