ニワトリは卵から生まれる。しかし、その卵はニワトリがなければ生まれない。因果関係が循環しているものの例えとして、よく言われる言葉である。約半世紀前、私達暇な学生はこのような議論をよくしたものである。 一般に、理系の学生は卵派、文系はニワトリ派に大別できるかもしれない。私は卵派だった。
大昔はニワトリなどいなかったはずである。だとすると、最初にニワトリと呼ばれた鳥があるはず。その最初のニワトリが鳥である限り、それは卵から生まれたはずである。だから、「卵が先」という理屈である。私はそれで決まりだと思っていた。
しかし、その理屈を納得しない人もいる。「その卵はニワトリの卵ではない。まだ『ニワトリ』という概念はその時なかった。その卵はニワトリじゃない鳥が産んだ卵に過ぎない。つまり、『ニワトリではない鳥』の卵である」というのである。
よく考えてみれば、これは言葉の問題である、両派とも事実認識は一致している。一致していながら、「卵が先だ」いや「ニワトリが先だ」と言っている。哲学者は、「人は言葉によって世界を認識する」というが、この件に関して言えば、「卵が先」でも「ニワトリが先」でも同じことである。単に遺伝子を優先するか、概念の成立を優先するかという問題にすぎない。言葉というものは重要だが、決して幻惑されてはならないと思う。