禅は不立文字というが、実際はものすごく饒舌である。言葉で表せないことをなんとか表現しようとするので、かえって言葉が多くなるのだろう。もともと表現できないことを表現するのだから、いきおい言葉の本来の意味からは大きく逸脱することもある。だから禅語は日常的な感覚からすると異常な言葉使いである。だから不用意にそれを口にしたりすると鼻につく、いわゆる「禅臭い」ということである。
基本的に、禅語はそれを創作した人だけのものであると私は考えている。非日常的な言葉を他の人が模倣して使用することが健全であるとは思えない。その言葉とぴったり一致する境涯に達したときにのみ使用すべきで、やたら軽々しく連発するものではない。禅者は表現者としてもクリエイティブでなくてはならないと思う。
「生死一如」とは常識的に考えて不可解な言葉である。生と死は対称概念である。生は死でなく死は生でないことはだれでも知っている。昨日まで私と話していた人がある日を境にものを言わなくなり動かなくなる。私と話していた時その人は生きていたのであり、動かなくなったその人は死んでいるのである。
ただし一つ重要な問題がある。私がここで了解している生と死は他人についてのものであるということである。しかし、禅者というのは常に己事究明を目指しているものであって、「生死一如」における生死も自分自身のものについてでなくてはならない。もし、他人について「生きているのも死んでいるのも同じ」と言ったとしたら、それは暴言というものである。
あらためて、「生死一如」の生死が自分の生死であるとすると、そこに新たな問題が立ち上がってくる。生と死は前述したとおり対称概念であり、生があって死があり、死があって生があるのである。私たちは他人の生死を通じて自分の生死についても周知していると思いがちであるが、決してそれは自明な概念ではない。そのことはこのブログでも以前に述べたことがある。(==>「死は人生のできごとではない」)
死が経験することのない概念であるなら、私たちは決して死を知ることがない。死が分からなければ、なにをもって生というかもまた分からないのである。もったいをつけて「生死一如」などという言葉を振りかざすのは、禅に対し神秘的なイメージを帯びさせるためには効果的かもしれないが、しかし、それは禅の精神から遠ざかることではないか。真理は常に現前していると主張する、禅はもっと素朴なはずのものである。