禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

有限性の後で(カンタン・メイヤスー) (前篇)

2016-04-23 06:40:18 | 読書感想文

1月末に書いた「なぜ、『なぜ』と問う?」という記事に関連してある方からこのメイヤスーの著書をご紹介していただいた。この論文についてインターネットで検索してみると、哲学史上のエポックメイキングであるかのような刺激的な書評がいくつか目についたので読んでみようと思い立ちました。

著者名はカンタンですが、そこは哲学書ですのであまり簡単なはずもありません。問題の背景を説明するために少し長めの前置きを述べたいと思います。

「ものごとにはすべて、そうである理由がある」というふうに、通常我々は考えます。このことを原理であるとして充足理由律と名付けたのが、18世紀の科学者であり哲学者でもあるライプニッツです。充足理由律にしたがって世の中におこる現象を見るとき、世界は因果律に支配されていることになります。あらゆる現象が原因と結果という因果関係にあるからです。物理現象における因果関係を説明するのが物理法則ということになります。

ところが同じ18世紀の哲学者ヒュームが、「因果律は理性によって根拠づけることができない。」と言い出したのです。原因と結果の間に必然的な結合と言えるような結びつきはない、我々が「必然」と考えているのは繰り返しの習慣から生まれる主観的な蓋然性にすぎないというのです。早い話が物理法則も「気のせい」であると言ったのです。

ヒュームの提言は哲学者に大きな衝撃を与えました。一見非常識ですが、哲学者の論理からすると当然のことであったからです。このことを最も深刻に受け止めたのがカントで、彼はヒュームの懐疑を克服するために、超越論的観念論を打ち立てました。この世界は我々の主観が因果律に沿うよう「構成」したものであると云うのです。であるから、彼はこの構成された世界の中では因果律はア・プリオリであると言います。

ちなみに、仏教では充足理由律は限定的にしか受け入れていません。因果律は一応認めているのですが、充足理由律を厳格に採用するとどうしても「一番最初の理由」としての創造神を認めなくてはなりません。諸行無常を説く仏教に充足理由律はなじまないのです。仏教はこの世界がこのようであるのはまったくの偶然であり、我々はそのことを無条件に受け入れなくてはならないと説きます。もしすべてが必然であるならば、恵まれた人間とそうでない人間の間には生まれながらに、人間としての根源的かつ「正当」な差別があることになってしまいます。仏教は人を差別しないし、そもそも人と人を比較することもしません。各個人がさらされた境遇というものも比較しなければ遇不遇ということもなく、執着も生まれない。とにかく身に降りかかった運命は事実として受け止めるしかない。それが無常の世界に対する仏教的諦観であります。「執着を持たない」それが釈尊の根本の教えであります。

少し横道にそれましたが、ヒュームの「因果関係に理性的根拠を見出すことはできない」ということは現代の哲学では当然のこととみなされています。それにもかかわらず物理法則は安定している、つまりこの世界は斉一な秩序によって支配されている。そう信じなければ私たちは生きていくことができません。結局、カントはもちろんヒュームでさえも物理法則を信じているのです。現在までこのギャップを正面から乗り越えた哲学者は誰もいないと言われています。メイヤスーは充足理由律を徹底的に排除してこのギャップをなくしてしまおうと言うのです。

うぅっ、前置きが長くなりました。本論はこの次にします。

コメント
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