禅的哲学

禅的哲学は哲学であって禅ではない。禅的視座から哲学をしてみようという試みである。禅を真剣に極めんとする人には無用である。

本当の私

2016-04-02 10:15:27 | 哲学

現在私は、哲学者の永井均先生の「存在と時間 哲学探究1」という本を読んでいる。その中で、「バーフィットの火星旅行の話」というのが紹介されているのだが、なかなか興味深い話なので披露したいと思う。

≪私は火星に行く遠隔輸送機の中にいる。私の身体がそのまま物理的に輸送されるのではない。私の細胞の全状態がスキャンされて記録され、その情報が火星に向かって発信されるのである。私の物理的身体はその時点で破壊されるが、発信された情報は間もなく火星に届き、その情報に基づいて火星に存在する物質からもとの私のものとまったく変わらない身体(脳を含む)が再生される。心は脳が作り出しているので、私の心も問題なく再生される。≫(P.79)

脳の状態はすべて元のまま再現されるので、記憶もそのまま再生される。遠隔輸送機が動き出したと思ったら次の瞬間、私は火星にある再生機の中にいることに気がつくのである。

バーフィットはここで問題を投げかける。この時機械の故障で、地球側の私の身体が破壊されずに残ってしまったらどういうことになるだろう、というのである。

つまり、中身のまったく同じ人間が同時に二人存在することになる。「地球側の私」にしてみれば何の変化もない、もともとそこにいた私がただいるだけのことである。一方、「火星側の私」にしてみれば、私は一瞬前に確かに地球にいた私なのである。一体どちらが本物の「私」なのだろう。

肉体の連続性ということを考慮すれば、地球側の「私」が一見有利にも思えるが、「火星側の私」にしてみれば到底それは承服しかねるに違いない。第三者から見ればどちらも全く同じでどちらも本物というしかない。

禅をかじったことがある人なら、この問題が無門関第35則「倩女離魂」と同じことをテーマにしていることにすでに気がついているだろう。(ご存じない方はこちらをクリック==>「倩女離魂」

もし、私を規定するものが私の身体や精神(記憶)であるならば、私は二人存在することになってしまう。第三者にとっては私を識別するものは身体と記憶しかないので、二人とも本物の私と言ってもよい。

禅仏教で問題とする本当の「私」とは私の肉体や精神を除去した残余である。私から肉体と精神を除けば何も残らないと考えるのがふつうである。確かに「質」的なものは何も残らない。問題としているのは「質」的でないものである。私を私たらしめているもの、その何の属性をも含まない無自性のものを、仏教では究極の主体性であるとしているのである。平たく言えば「この世界がこの私から開けている」というそのことに他ならない。永井先生はそのことを「世界の開闢(かいびゃく)」と言い、ウィトゲンシュタインは、「私は私の世界である」(論考5.63)と言う。仏教では、「天上天下唯我独尊」というその「比類なき我」のことである。


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