子どもからは「じじ先生」 猛烈社員が65歳で保育士になったワケ
2019/11/02 08:00AERA dot.
子どもからは「じじ先生」 猛烈社員が65歳で保育士になったワケ
高田勇紀夫さんは『じーじ、65歳で保育士になったよ』という本も上梓した (撮影/伊ケ崎忍)
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「人生100年時代」をどう過ごすか。総務省調べによると、昨年の65歳以上の就業者数は862万人。就業者総数の12.9%と過去最高になった。どんな仕事に就いたら、満足度の高い第二の人生を送ることができるのか。現役時代と全く違った分野に飛び込んでしなやかに活躍する人たちもいる。
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65歳で保育士になり、都内の認可保育所で働いて3年目なのは高田勇紀夫さん(67=豊島区)だ。
「まさか自分が保育士になるなんて、4年前まで想像もしていませんでした」
2015年の秋、新聞で保育所の待機児童に関する記事を読んだのが発端だ。
保育所の数が大幅に足りない。子どもが保育所に入れないため、働けない母親が大勢いる。最初から出産を諦める夫婦までいる──。そう報じる記事だった。その日から待機児童問題を意識し、新聞や雑誌に目を通す。若い親たちの悲痛な声が聞こえてきて、それほど深刻な問題になっているのかと衝撃を受けた。「保育園落ちた日本死ね」という言葉が、新語・流行語大賞のトップ10に入る前年である。
「微力ながら待機児童問題の解決の一助になりたいと思ったんです」
妻に打ち明けると、「あなたに務まるはずがない」とにべもなかった。無理もない。高田さんは、定年まで日本アイ・ビー・エムの猛烈社員だった。部下100人を持つ部門長まで昇った。若い頃、育児は専業主婦の妻に任せっきりだった。「夜泣きの子をあやしたこともなかったでしょ」と言う妻にぐうの音も出なかったが、「だからこそ、家族への贖罪(しょくざい)の気持ちを込めて、保育士になる」。
国家試験に受からなければならない。比較的安価な通信講座を利用することにし、段ボール箱いっぱいの教材が届いたのが、15年12月。翌16年4月の試験で保育原理、児童家庭福祉、子どもの食と栄養など全9科目に合格することを目標に「1日にテキスト10ページをマスターする」と計画を立て、連日8時間近く猛勉強した。
2科目を落としたが、同年10月の2度目の試験で合格。言語表現、造形表現の実技試験は、懸命の努力の甲斐あって一発合格。17年1月に合格通知を受け取った時、「武者震いした」そうだ。資格取得までにかかった総費用は11万円強。
すぐに、人材仲介会社を通じて勤め先を探した。パソコンのサイトに年齢を登録しようとすると、「60代」の選択肢がなく、アプローチできなかった。そこで、紙の履歴書に、経歴と保育の仕事への熱意を綴(つづ)った自己紹介文を書き、郵送した。結果、第1志望の保育所への就職が決まった。体力などを考慮し、週3日、8時から17時までの勤務だ。
「今? 3、4歳のクラスの副担任で、『じじ先生』と呼ばれて人気あるんですよ(笑)。登園してきた子が飛びついてくる時、『一緒に遊ぼう』とせがまれる時、その子が嫌いだった野菜を昼食で食べられた時、保護者から信頼されていると感じる時……。ジーンとくる瞬間がしょっちゅうです」
勤務している保育所では総勢約20人の保育士の中で飛び抜けて年上。やりにくいことはないかと尋ねると、高田さんは「今はないですね」と即答し、こう続けた。
「経験は生かすが、プライドは捨てましたから」
上司は20代の女性だ。新任の頃、教室の中央で子どもと遊んでいると、いきなり「その立ち位置はダメ。(教室の)角へ行って」と指示された。カチンときたが、「真ん中にいると片側しか見られず、死角ができる。角なら教室全体を見守れるという理由だと後で分かり、納得しました」。
自分は部下に指示する時、理由を先に述べるなど配慮してきた。しかし、若い彼女らの物言いはストレート。「私はニューカマーなのだから、つべこべ思わず受け入れよう」と割り切った。それが、プライドを捨てることだった。
高田さんは、「健康である限り、保育士を続けたい」ときっぱり。さらに、働く中で見えてきた保育士らの婚活問題に寄与できる仕組みを作ろうと、新たな取り組みを始めている。(ノンフィクション・ライター 井上理津子)
※週刊朝日 2019年11月8日号
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