人との接触8割減を迫り、42万人が死ぬと脅した「8割おじさん」こと北海道大の西浦教授。その数理モデルは間違っていたと本誌(「週刊新潮」)は書いてきたが、それをデータとともに突きつけられた大阪府の吉村知事は、天を仰いだという。事実、ツケは大きすぎるので――。

 新型コロナが未知のウイルスであった以上、警戒しすぎも、ある程度は致し方なかったのだろうか。

 たとえば、安倍総理は緊急事態宣言を発令した4月7日、「人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減できれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができる」と発言。言うまでもなく、8割削減という目標は、厚生労働省クラスター対策班に所属する北海道大学の西浦博教授(理論疫学)による試算を根拠にしていた。

 しかし、安倍総理の言葉には「緩み」があったようで、西浦教授はすぐに「この7割は政治側が勝手に言っていることで、私は一切言及したことがありません」とツイート。8割でなければダメだ、と強調したのである。

 西浦教授はさらに畳みかけ、4月15日には、接触を減らすなどの対策をまったくとらなければ、国内で約85万人が重症化、うち約42万人が死亡する恐れがある、という試算を公表した。テレビも加勢し、翌16日のTBS系「ひるおび!」を例にとれば、八代英輝弁護士が「政治はそれ(科学的知見)に従うということが大前提で、科学的知見が8割であったら、それを政治で7割に調整するということは、本来許されない」と発言。専門家とメディアがスクラムを組み、政治的判断の先をいく自粛ムードを作っていった。

 日本で欧米のように感染が広がらなかったのは、過剰な警戒の賜物なのか。

 ところが、大阪府の吉村洋文知事は6月12日、「第2回大阪府新型コロナウイルス対策本部専門家会議」終了後の囲み会見で、次のように語った。これは3月半ばに初回が開かれ、今回、第2波に備え、国に先がけこれまでを検証すべく、再招集されたものだ。

「西浦モデルだけを信じて突き進むのは違うんじゃないか。大阪と兵庫の往来自粛をしたときも、西浦先生の数字で、兵庫と大阪は2週間後に感染者が3千人になる、とありましたが、事実としてそうはならなかったです。緊急事態宣言が出されたときも、8割の接触削減をしないと感染者が右肩上がりになるということでしたが、事実と適合してないわけですよね」

 そして、こう繋いだ。

「40万人亡くなるというのも、4月15日に出ましたが、ああいうのを僕ら政治家が見せられると、すごく影響が強い。命を守らなきゃいけない立場になったときに、40万人死にますと言われると、全部抑えなければならない、となってきます。でも、40万人死んでいません。現実には900人。すべて西浦モデルが出発点になって、国の方針が示されてきました。それをやっても副作用がなければ全然いいけど、休業要請などもすべてにかけていくと、副作用、出血、犠牲があまりに大きすぎるので、国を挙げて批判的検証をしないと間違った方向に進むんじゃないか」

 いわば「8割おじさんに騙された」と、白状した恰好だった。

 実際、「騙された」ことによる「副作用」は、治癒できるレベルではない。第一生命経済研究所首席エコノミストの永濱利廣氏は、「8割削減にかぎってのダメージを測るのは難しい」としながら、そこが出発点になった緊急事態宣言に伴う経済への影響について、

「GDPベースで最大12兆円の損失が生じ、今後も含め、失業者が60万人程度出ます」

 と見るのである。

天を仰いだ吉村知事

 吉村知事が先のように語ったのも、会議の席でオブザーバー参加した2人の学者から、緊急事態宣言も、西浦教授の予測を信じて行った大阪と兵庫の間の往来自粛も、多方面への営業自粛要請にも、効果がなかったと断じられたからだ。

 その学者の一人、京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸准教授は、

「吉村知事は天を仰いでいました。西浦モデルに“騙された”という思いがあるのではないでしょうか」

 と、述懐。そして、

「私はウイルス学が専門で、常にウイルスが飛び交う場所で、感染リスクを考えながら研究しています。その点からいっても、新型コロナは基礎疾患がある人、高齢者などの“コロナ弱者”を除けば治る病気。強毒性のウイルスと同様の対処をするのはどうなのか、というのが私の意見です」

 と言い、多くの対策に効果がなかった根拠を説く。

「空気感染はないと言っていいレベルで、咳、痰、唾が飛んでの飛沫感染、ウイルスが付着した手で口や鼻を触っての接触感染に気をつければ、感染リスクは非常に下がり、それにはこまめな手洗いとマスク着用で事足ります。感染は3月28日にはピークアウトしていましたが、収束へ向かったのは初期段階の対策の効果。緊急事態宣言の発令後、映画館やパチンコ店など、ほとんど話をしない場所への自粛も呼びかけられ、駅の利用状況も問題視されましたが、唾液が飛ばないところで自粛しても意味がありません。緊急事態宣言にも、メンタル的な効果はあったと思いますが、休業を強いる必要はなかった」

 西浦教授の数理モデル自体はどうか。

「42万人死亡、という数字は、だれも新型コロナを気にせず、毎日ドンチャン騒ぎをする状況なら、確率論的にはありえますが、一般常識としてはありえません。その公表がリスクコミュニケーションとしてどうだったかといえば、私はよくなかったと思う。言い出せば世の中は怖いウイルスだらけで、何百万人死ぬという推計も、出そうと思えば出せます。しかし、出しても恐怖を呼び、社会的に混乱を招くだけです」

 また、今回の感染は、

「中野教授のK値を見ても、自然減の傾向が強く、放っておいても下がる」

 と語る。そこでもう一人の学者、大阪大学核物理研究センター長の中野貴志教授に登場を願おう。まず「K値」についてだが、

「感染拡大率の減速を示す指標で、直近1週間の新規感染者数を、累積感染者数で割って算出するものです。先にK値で予想を立て、以降の感染者数を見ると、いまのところ予測とほとんど同じ推移です。指数関数的に感染者数が増えると言われていた時期に、それはありえないと思い、初めて計算しました。この病気は発症後2週間で治るので、指数関数的に増え続けるのは不可能。投げたボールが落ちてくるように、感染者の推移も、勢いよく上がっているように見えている段階でさえ減速している。その勢いの衰え方がずっと一緒なら、少なくなるのはいつかという予測も立ちます」

 K値を通して、見えてきたことは多いという。

「人と人との接触が多いと感染拡大のペースが上がるなら、都市部では収束が遅れ、地方では早くなるはずですが、それが変わらない。すると、3月上旬までの感染者で、日本のその後の感染者数の推移は決まったと考えたほうが自然です」

 もっとも中野教授は、

「3月中旬までに行った対策は手洗いもマスクも3密回避も、きっと意味があって続けるべきことが多い」

 と強調し、クラスター対策によっても、

「ボールを引っ張る引力が倍ぐらい強くなる」

 としつつも、こう話す。

「緊急事態宣言はK値の解析レベルではわからない程度の改善しかなく、大阪と兵庫の往来自粛も同様です。人出の多少でも変わらず、パチンコ店でもクラスターの発生はない。大声で人と話し、唾が飛び交う状況でないただの“密”は危なくない、と考えたほうが論理的です。さらに日本は欧米にくらべ、ロックダウン前の収束スピードが倍くらい速い。これには疫学的ななにかがあると思います。だから、海外から感染者が入ったら欧米のように感染爆発とか、ありえません」

「42万人」も指数関数的に増え続ける場合の数字で、発表時にはすでに「鎖国」していたのだから、

「ありえない」

 と訴える。知事がショックを受けたのも無理はない。

「週刊新潮」2020年6月25日号 掲載