クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

第28回鎌倉街道武者行列 H-27-10-12

2015-10-13 09:13:20 | 伝説・史跡探訪
秋晴れの10月12日、久しぶりに第28回鎌倉街道武者行列の見物に出かけた。
「高崎新聞」の記事をそのまま引用すれば「城南地区には、烏川に沿って、
鎌倉街道が残されている。この事業は、鎌倉街道や、謡曲「鉢の木」の
佐野源左衛門の物語に伝わる「いざ鎌倉」などの歴史を、後世に伝える
地域づくりイベント」と云う事で城南小学校関係者・竜見町・下和田町・
新後閑町の皆さんとゲストの団体さんが参加している。

午前十時のスタートに合わせて城南小学校に向かうと校門脇に行列の
武将を乗せる馬が待機中。今年の馬は川越からの遠征らしい。



大勢の参加児童と武将に扮した地元の方々、ゲストの皆さんが整列。



群馬甲冑愛好会のお馴染みの面々。



日本兵法抜刀道 群馬支部の方々、通称志村道場。



実行委員会の挨拶の後、隊列が出発。地元の方々の統一された旗印は
「丸の内に三つ引き」だから戦国時代の和田城主・和田信業のものらしい。
三本線が円に付いていれば「丸に三つ引き」。
今日は全般に逆光で写真が駄目、被写体になって頂いた方々には申し訳ない。















小学校から僅かの距離に田島桂男氏の撰文による鎌倉街道記念碑。
コレによると、この近辺の鎌倉街道は「馬上宿(今の市庁舎辺)から
愛宕神社(今の愛宕公園)ー竜見町ー下和田ー新後閑を通りそこから佐野・
倉賀野方面と根小屋・山名方面に分かれ、藤岡で再び合して
いたらしい。





琴平神社前で隊列を整えるため小休止。



これから先には細道が無いので武将役の一人が馬上に。



行進の様子。

















琴平神社前信号から新後閑町に進む。馬も車道の騒音には慣れているらしく
同じペース。



隊列の先頭はこの幕が務める。



上信電車の線路を渡る子供部隊は元気一杯だが



こちらは少々お疲れの模様。



線路にトラック、武者行列の組み合わせ。



後続の武者役たちも電車通過にも遭わずに無事通過。











今年の法螺貝も例年の方、リクエストに気軽に応じて立ち止まって一吹きのサービス。



南町・新田町を通過、あら町で左折する隊列。

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シンフォニーロードを進んで市庁舎が近づく。近代的建物と行列のコラボ。




約一時間の行進で市庁舎前広場に到着、出陣式に先立って抜刀術のアトラクション。

MVI 0138


MVI 0139


出陣式が開始され、この後は小学校に戻って凱旋式と言う段取りだが
こちらは午後には対阪神との決戦を観るために帰宅。



「丸の内に三つ引き」は和田信業のものと聞いたので例によって爺イの蛇足の一席。

遥かの昔、鎌倉ご家人の中核・和田義盛は北條の挑発に乗せられ先に手を出して
しまい敗戦、これが1213年の和田合戦。鎌倉生まれの爺イは子供の頃から
江ノ電に「和田塚」の名を残す義盛があくどい北条に対する善玉武将として
大好きだ。この合戦で一族は抹殺されたことになっているが、その中で六男・義信
またはその子・正信、若しくは八男・義国の何れかが箕郷・和田山地区に逃れて
蟄居生活を送ったという伝説を信じている。
箕郷の町中から安中線を南下、右手に西部病院を見てから右折、中和田橋で
榛名白川を渡った突き当りがその「和田山」地区で和田館跡の解説看板もある。
やがて和田氏は勢力を得て現在の高崎となっている赤坂庄に進出しそこを
「和田」としたという。
「丸の内に三つ引き」の和田信業は1560年、甲斐武田氏の譜代家老である跡部勝資の子
として生まれ武田氏の西上野侵攻の後、上野の国衆で和田城主・和田業繁の婿養子となり、
1575年の長篠の戦いで業繁が戦死したため、家督を継いで当主となった。
この事から上野の一国衆に過ぎなかった和田氏は、武田氏重臣の子を当主に迎えたことで
武田家中において譜代の家臣並みの位置づけを得た。

1582年、信長の甲州征伐で武田氏が滅亡するのに先立ち和田氏は北条氏直に属したが、
後に上野は織田信長の家臣・滝川一益が領有したため、織田氏の家臣となる。
しかし同年6月の本能寺の変で信長が死去し、滝川一益も神流川の戦いで敗走したため、
再び北条氏直の家臣となり、後北条氏では他国衆として遇されたが1590年の小田原征伐では
後北条方に与して小田原城に籠もったため、和田城の留守を預かる兼業は、前田利家・
上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、4月に落城し、廃城。
そして家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた井伊直政は、
1597年に家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築いた。翌、1598年直政は
箕輪城から築城中の高崎城に移る。直政は入城に際し、当地を「高崎」と名づけ箕輪より
町家や社寺を移して城下町を築いた。
1600年の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となり
その後は、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、
間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、
明治維新を迎えた。最後の藩主は輝声(てるな)である。
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