クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

新町ふるさと祭り 2016 H-28-11- 6

2016-11-08 12:50:01 | 伝説・史跡探訪
11月6日の日曜日、少々風か強いが天気は良いので昼過ぎから高崎市・新町に
向かった。2年ぶりの新町のイベントを見物だ。
駅北側の某所に駐車して駅脇から歩道橋で高崎線を跨いで南側に移れば
こんな道案内に従って



一直線で会場の「いちょう並木通り」に着く。



この高崎市新町は中仙道・新町宿として発展していたが、2006年1月に群馬郡群馬町・
箕郷町・倉渕村と共に高崎市に編入された。当時の人口は12.400人ほど、地域は
3.7平方キロメートルで県内最小地域だった。
ここは所謂、飛び地である。西と南は藤岡市、北は玉村町、東は埼玉県上里町に囲まれている。
元々は吉井・鬼石町と共に藤岡市を軸にして一市三町の合併予定だったが吉井町と新町が
住民投票の結果、合併協議から離脱して隣接してはいないが繋がりの深い高崎市との
合併を選択したため、飛び地となったのだ。

このイベントは「17回新町商工祭」「21回大道芸まつり」「19回ふるさと祭り神流合戦」
の合同で何れも旧新町時代からの町興しの一環であるが現場は道の片側に多くの
テントの出店が並び驚くほど大勢の買い物客や見物人が密集して大盛況。
関係者に聞いたら店舗数は120軒超とか。兎に角、子供の姿が圧倒的に多いので一瞬
この国はホントに少子化なのか? と疑いたくなる。



閑散とした店は皆無に見え、各店前には行列状態。混雑の店はこんな対策をしているが
これも客寄せの作戦の匂い。



混雑の中、こんな怪人も出現して飛び跳ねるので女の子たちはキャーキャーと
逃げ回るが子供たちは大喜び。本人は「足長赤天狗」と名乗っていたが、
どうやらパラリンピックで見るようなバネの付いた長足を着けている模様。



感じとしてはバザールの店舗が主眼になった傾向があり、かって多かった大道芸は
影が薄い模様だがその幾つかを。

メイン舞台敷地内で似顔絵師・宮地真一さんは子供さん相手に営業中だが
ジッとしていないお客さんのご機嫌取りも芸の内。



(動画を途中で止めるには画面左下の縦二本棒をクリック、終わってから
もう一度見るには終了後の画面左下の繰り返しマークをクリック)

似顔絵師


場所を転々としているので演技回数の多そうな昔懐かしの南京玉すだれ。
幟を見ると「楽笑一門会」とあるがご年配の様子や演技レベルから
推し量ると同好会の雰囲気。



(動画を途中で止めるには画面左下の縦二本棒をクリック、終わってから
もう一度見るには終了後の画面左下の繰り返しマークをクリック)

南京玉簾


因みに南京玉すだれのルーツは中国・南京ではなく日本である。
これをご覧下さい
(元の画面に戻すには画面左上の「左差しの矢印をクリック。)


これも随所に出没しているバルーンアート、親子連れに囲まれての演技だが
出来た製品は販売ではなく全て観客に進呈。

バルーンアーチェスト


メインステージでは午後三時まで保育園・幼稚園・小学校・中学校・上武大学
自衛隊駐屯地など新町総動員での踊り・鼓笛隊・ブラスバンド・太鼓など
に加えてガトーハラダの太鼓部も。
盛り沢山。これが終わらないと武者行列は始められないので行列は夕暮れ間近の
北風の中で開始。想像するとステージの空き時間と並木通りの人並みが減る
時間を狙ったのかも知れない。



北風で砂煙りが上がる中、漸く行列が始まる。先頭は多分、この地の名士・
金井(後に倉賀野)秀景率いる上野衆らしいが扮するのは自衛隊員と上武大学生か?、
一益隊に続くのは隣町の「玉村手作り甲冑愛好会」の集団、そして最後尾に目的の
群馬甲冑愛好会。

(動画を途中で止めるには画面左下の縦二本棒をクリック、終わってから
もう一度見るには終了後の画面左下の繰り返しマークをクリック)

神流合戦武者行列


この動画でお気づきかも知れないが一益隊が奇妙な旗指物を使っている。これは
正確には一益の「馬印」である。馬印は戦国時代頃から戦場において、自軍の大将の
所在を示すために作られたもので大将の馬の横に立てたため、「馬印」とか「馬標」と
云われるもの。一益の馬印の名は「金の三つ団子」。信長自身を含めてこの一党は派手な
馬印を使っているがその発祥は「信長記」の1570年代ではなく1546年に
大道寺氏が既に使ったという事らしい。いずれにしても馬印を部隊員の旗指物に
使うのは如何なものか? とは戦国マニアの爺イの独り言。

甲冑愛好会の面々

           

玉村手作り甲冑愛好会

   

因みに神流川とはこんな史跡が無ければ話題にならないほどの細い川。大きな利根川は
本庄の北で西への「烏川」を派生させるが、その烏川が埼玉・上里と新町の境近くで
南への細い川を分ける。これが神流川で自衛隊駐屯地の東を南に延びている。
つまり、利根川の孫みたいなもの。
尚、合戦碑は国道17号線の新町側にある。


突然、サンバチームとすれ違い。



サンバチームの出現で行列は大乱れ。

サンバチーム



そんな事で今年のお祭りを後にして寒空の中を帰宅。

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蛇足

武田勝頼が天目山田野で惨殺され、(大河では平岳大好演)信長より
上野国を任された滝川一益はその3ヵ月後に本能寺の変(1582-6-2)を
事件発生から7日後に知る。(5日後の説あり)
箕輪城が落ちて上野の雄・長野氏が滅亡したのが1566年だから
もう16年が経っていた時の事件。
甲賀忍者出身とも噂される胡散臭さもあったが、一面では文化人
とも伝わる一益、咄嗟に家康と同じく逃走を決める。所が周囲は数ヶ月の付き
合いしかない元・武田軍団の上野国人衆、しかも信長倒れると知れば
直ぐに寄せてくる事が予想される北条も直ぐ南の武蔵に居る。
そこで採った作戦は、国人衆を味方につけて当座の反乱を防ぎつつ、
北条の頭をほんの一寸叩いて退路を確保してから本拠の伊勢・長島へ
遁走するという高等戦術。

一益は 度胸良く厩橋城に留め置いた国人衆の人質を全て解放し、信長の死も
伝えて一旦解散し後の再度の結集を求める。国人衆はその潔さに感服
して合力を約するという思惑通りの展開。

作戦は小田原の氏政・氏直の本隊が来る前に寄居・鉢形城の氏邦を
叩こうというもので、「信長弔い合戦のため上洛するから厩橋城を
受け取りに来い」と北条を挑発。これに乗せられた氏邦は鉢形から僅かに
2500の兵力だけで一益配下の斉藤光透・光房の守る金窪城(現・金久保)まで
のこのことやってくる。もう、山崎では明智光秀は討たれている時期。

時に1582-6-17の夕方、だがその金窪城の北・西側には一益隊・国人隊連合が
陣を敷いてカモを待ち構えていた。国人の大将は倉賀野16騎で名高い
金井淡路守(後の倉賀野氏)、今年の大河ドラマで大人気の真田昌幸も
沼田安堵で一益に恩義があるので五千を率いて一益隊に合流している。
第一回戦は6-18の早朝から。上野勢が圧倒的に主導権を取って完勝。
だが、夕方には氏政本隊も既に2キロ南まで到達していた。

二回戦は翌日の朝から余勢を駆った上野勢から仕掛ける。午前中は
上野勢が押し捲ったが北条の侍大将・大道寺の作戦に嵌って形成大逆転。
つまり、本隊到着で三倍の兵力となった北条が突然引き始める。
つんのめるように一益隊は突進するが、それが包み込んで殲滅する
北条の罠。

まんまと嵌められて上野勢は大敗して厩橋城に撤退、一益は予定通り碓氷峠
から伊勢・長島に向かって遁走。此処までは予定通りだったが、
織田重臣の筈の一益はこの敗けっぷりと逃げ足の速さが祟って
後継指名の清洲会議(6-27)にも呼ばれなかった。
資料では松井田城を経て、追って来る北条勢を振り払いつつ、碓氷峠を
通り小諸城を26日に発って伊勢に向けて負走。そうすると
27日の清洲会議には呼ばれなかったと云うより、未だ帰着して
いなかったので結果的に呼ばれる情勢には無かったのだな。
その後の一益は柴田勝家と組んで織田信孝を擁し勝家・信孝自決後も
伊勢長島に籠城し孤軍奮闘したが、7月には降伏、秀吉に降ってからも
小牧・長久手で家康に敗れた責任で剃髪、越前で寂しくその一生を閉じている。

一方の秀景は破れた一益が関東から撤退すると、和田信業等と共に北条氏の軍門に降る。
この時、秀景は一益との別れを惜しみ、真田昌幸等と木曾まで一益を警固している。
上州衆を箕輪城に集め別れの酒宴を開いた時、一益が自ら鼓を打って、
「武士の交り頼みある仲の酒宴かな」(羅生門)と謡うと、秀景は
「名残今はと鳴く鳥の」(源氏供養)と唄い、互いに名残惜しんだと伝わる。
1590年の秀吉の小田原征伐では北条方武将として小田原城に籠城し、
早川口の守備についたが小田原城は同年7月5日に落城、秀景は7月27日に没した
とされるが戦傷に拠るものか?病に冒されたか?死因は不明となっているそうだ。

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