クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

倉渕伝説・権田栗毛 R- 4- 5-4

2022-05-04 18:39:38 | 伝説・史跡探訪
木曽義高の稿でも触れたが今回の大河の脚本では本命が
頼朝死後の義時を中心とした幕府体制であろうから
途中で脱落して出家してしまった熊谷次郎の影は
薄く熊谷と愛馬権田栗毛に関する伝説とか一の谷の
決戦での敦盛との経緯など能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、
文楽/歌舞伎『一谷嫩軍記』で知られたエピソードは
取り上げられていない。
権田栗毛伝説はここ高崎倉淵に関わるので「クタビレ爺イの
面白日本史」なるサイトの2006年の記事から再録する。

倉渕の伝承の中に未だ馴染み深いのがあつた。
熊谷直実に絡む「権田栗毛」の説話である。午後、
少々時間が出来たので性懲りも無くその伝承の跡
を尋ねた。
この話、取り敢えずのおさらい。解説から引用。
古来、上野国・権田村は牧場が多く、名馬の産地として有名で、
それらは「権田栗毛」と呼ばれたがその端緒となったのが
熊谷直実に供せられた「権田栗毛」。小池市助なる者の家から
熊谷に引取られた。この馬は直実と共に戦場を駆け回り数々の
功を上げたが、一の谷の合戦で傷つき、直実は自分の母衣布で
手当てして故郷に帰す。
然し、「名馬出ればその家絶つ」の言い伝えの通り、故郷の
市助家は断絶しており、悲しんだ栗毛が屋敷跡を回ると
背につけていた母衣が落ちた。土地の人はそれを埋めて
「お母衣明神」として祭る。
母衣に付いていた金の観音像は岩窟に堂宇を設けて安置。
傷も癒えぬ権田栗毛は主人の居る熊谷を目指すが倉渕・
土城谷戸で絶命。村人はここに馬頭観音を建てたーーー
と言うもの。母衣=ホロ お母衣=オボロ

(1)馬頭観音
406号線を西に進むと湯殿山トンネルから3キロ地点
の右側に突然、教育委員会の表示白杭が目に入って大慌て。
少し先の民家の空き地に駐車。入り口に由来説明看板と石柱、

坂の上の崖中腹に一寸荒れた馬頭観音。

かっては堂宇があったかのような痕跡があるが今は
石祠が二つと手前に曰くありげな大石。この大石は枕石とか。

(2)祐全寺
伝承でこの時の権田栗毛の轡と鞍が残ると伝えられる祐全寺を
探した。馬頭観音から少し西進して左手の小道の先に発見
したが、何と廃寺になっていた。住職から伝説話でもとの
思惑ははずれ。



(3)岩下・岩窟観音
母衣に付いていた観音像を祭ったとされる洞窟観音を尋ねる。
倉渕支所から約2㌔(トンネルからは8.4k)西進した
ところにバス停・大番道、そこの「満寿池」という大きな
料理屋が目印。
斜め手前の崖下に最近修復されて真新しい岩窟観音。

迫り出した崖の下、崖の崩落で堂宇が潰されたとのこと。
その崖もコンクリートで全面補強されている。村人が木造の
観音像を彫り母衣についていた一寸八分の金の観音像を胎内に
納めて堂宇を建てたのが始まりとか。補強は平成十二年から
三年がかり。

傍の「観音清水」は群馬の名水にも載っている。


(4)お母衣明神
母衣を埋めたと言う「お母衣明神」は表示も無いので、
一番分かり難い。
権田信号を北軽方面に左折して直ぐに亀沢温泉方面への道に
右折。0.5k地点の右の斜面に作られた細い人工沢の先、
斜面に何やら石宮と錆びついた多数の型の鳥居。なんとも
言い様の無い哀れな明神。近くに朽ち果てた白塗りの剥げた
角材が放置されているので、それがかつての表示物かも
しれない。
この地域の字名は栗毛の生家と同じの「小池」。


(5)蛇足・その一 熊谷次郎直実という武士
1142年、熊谷生まれ。十九歳の時、平治の乱で源氏方に
ついて敗北、
平氏に仕える。1180年の石橋山では平氏方で頼朝を追うが
源氏に鞍替え。
1184年の一の谷の合戦では西の城戸口で息子共々先駆け争いに
はやって馬を射られる。これが多分権田栗毛の伝説の元。
この戦いで敦盛の首級をとって名を上げるが1191年、首脳陣との
諍いで武士を辞め、後に「蓮生坊」を名乗る。

(6)蛇足・そのニ 権田栗毛・平家物語より
平家物語「第86句 熊谷・平山一ニの駆」より引用。
「熊谷は褐の直垂に黒糸緘の鎧着て紅の母衣かけ権田栗毛と
いう馬に乗りー」
「熊谷は馬の腹を射られてしきりに跳ねければ弓杖突いて
降り立ったりー」
平山とは熊谷親子や成田五郎と共に先駆けをした平山季重の事。
それにしても平家物語にはやたらと馬の名前が出てくる。
畠山重忠・三日月、佐々木高綱・生唼、梶原景季・磨墨、
源頼朝・鎌倉黒、藤原国衡・高盾黒、平知盛・井上黒、
平教経・薄雲、平重衡・夜目無月毛―等など。


(7)蛇足・その三 反論説
権田栗毛は倉渕産ではないとする説。
直実の部下に権太という馬の飼育に達者な者が居た。
直実はこの者に命じて名馬の産地・奥州一の戸より逸物を取り
寄せた。直実はこの馬を「権太栗毛」と名付けるが、一の谷・
西城戸口にて傷を負う。 
権太も倉渕の出身ではない。 だが、伝説は詮索無用だろうな。

吉井の「羊太夫伝説」で羊が大和との往来で乗っていたのも
確か「権田栗毛」であったと記憶する。

(8)蛇足・その四
鎌倉殿の13人のメンバー
源頼朝の死後に発足した集団指導体制である
「十三人の合議制」を構成した御家人たち。
武士団
比企能員(佐藤二朗)、梶原景時(中村獅童)和田義盛(横田栄司)、
北条義時(小栗旬)、北条時政(坂東彌十郎)、
八田知家(市原隼人)、足立遠元(大野泰広)、
三浦義澄(佐藤B作)、安達盛長(野添義弘)、

文官
中原親能(川島潤哉)、二階堂行政(野仲イサオ)、
大江広元(栗原英雄)三善康信(小林隆)

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