(2)榛名若御子神社
黒岩下からR-28を下って松の沢地区に入ると右側に地味な神社。
かってこれは松の沢村の村社だった。記録に依ると榛名神社の祭神を
祭り、元の名は「榛名社」、明治時代に火産霊神を合祀して今の名前。
巨木も残っており鎮守の森の雰囲気がある。神社は小さいのに石像物が
多い。
本殿右手前のこの「手洗い鉢」は何の変哲も無いが、これが最も古く
正徳四年と言うから1714年、大奥の「絵島事件」があった年。
「満行山大権現」との銘がある。
そう言えば鳥居の掲額にも「満行宮」とある。因みに鳥居は享保二年の銘。
1717年で大岡忠相が町奉行に執り立てられた年。
本殿前の賽銭箱、丸太の刳り貫きのようで、此れではドロ君も手が出まい。
正面右手には大きな「大山祗神」、嘉永四年(1851年)の作。
今の大河ドラマ篤姫に出てくる中浜万次郎が帰朝した年。
堅労地神、慶応四年の作。つまり明治元年と言う事。土地の守り神で
幕末辺りから豊作祈願の為に盛んに祠られたとか。
大黒天、制作年代不明。
黒髪神社
摩利支天 安政四年作。ハリスと下田条約を締結した年。
相馬山座主
文字道祖神、椿山文明書、宝歴三年(1753年)、吉宗死去の二年後。
双神道祖神、右側が割れていて修復の跡がある。「向き合形」で珍しいとか。
帰り際に振りかえるとこの石灯籠も古くて曰くありそう。
(3)随道の導水口
神社を辞してR-28を下り左側の広場風の所に駐車。丁度「松の沢三号橋」の
バス停前。山を背にして弁天様の像。額に鳥居を戴くと言われるが識別
出来ない。優しそうな顔なのに弓矢・刀を持つ八臂の坐像。
水路の右端に随道の導水口、榛東へのもので水利権で随分と紛争の
元だったとか。
読みにくい銘板は「榛名幹線一号」
(4)松沢寺跡
探すのが大苦労。何しろ寺院名鑑に「石上寺末寺、開基・創建詳かならず、
大正初期に廃寺」とある位だから。
「松の沢のお店の角を東に登る」と古い本に書いてあるが、現在この付近には
商店はなし。漸くバス停一つ歩いて元店舗らしき民家を発見、急坂を登ると
左に林道・日向線の道標。
漸く思い出した。この林道を西に行くと琴平山登山口だ。直進すると直ぐに
峠の頂点で先は両側崖。峠手前に戻ると東側の林の中は数カ所に分かれた
墓地。全部が清水家だ。松の沢寺の山号が「清水山」なのでこの辺と
思うが判らない。取り敢えず墓地内を偵察すると、墓地の中に墓石より
多いくらいの仏像が置かれている。幾つか写真にとって引き返す。
墓地の反対側のカーブの角に立派な石像が並んでいたので眺めていたら
突然後からおばあさんに声を掛けられた。それも「そりゃ高遠石工だよ」と。
意外な言葉に驚きながらおばあさん(こっちもおじいさんだが)に色々と
言い伝えを聞かせてもらった。
其れによると確かにここは松の沢寺の跡、但し廃寺になって久しいし、
地主さんが浜川の人なので連絡できず整備も侭ならないと。
寺跡の北側に住むこの清水さん(此の辺全部が清水さんとか)がかって家を
建てる時、整地の段階で地中から大量の石屑が出て大騒ぎになったそうだが
実は清水家のある所は近くの百観音制作の為に雇われた高遠石工の
作業場だったらしい。先ほどの峠の谷から石材を運び出してここで
作業したとか。133体の百観音は確かに高崎市指定「重要有形民俗文化財」に
指定されているが、所有は個人(これも清水さん)でその人が転居する時に
管理を委託されたが人手が足りずに当時の箕郷町に委託したとか。
かつて撮影した百観音の写真。
そのときの石工の中で亡くなった人は清水家の墓地内に無縁仏として
葬られているとの事、多分これらが該当か?
寺跡の石像群の中に弘法大師像、被っている毛糸の帽子はこの
おばあさんの作。
この大きな青面金剛搭は一旦倒壊し建てなおしのとき、村人が南向きを
東向きにしてしまったとはおばあさんの嘆き節。
連句の刻まれた石殿は此れらしいが全く読めない。
その他、数点の写真を撮って本日は終了。
記録を調べたら白川の竜沢寺4世が長野業政に依頼されてここに松沢寺を
開き松の沢藩の修学道場とした。その後、石上寺が隠居所を建て村人の
学問所とし、明治の初めには儒者の佐々木愚山が仮寓して子弟を教えた
事もあったが大正期に廃寺。
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黒岩下からR-28を下って松の沢地区に入ると右側に地味な神社。
かってこれは松の沢村の村社だった。記録に依ると榛名神社の祭神を
祭り、元の名は「榛名社」、明治時代に火産霊神を合祀して今の名前。
巨木も残っており鎮守の森の雰囲気がある。神社は小さいのに石像物が
多い。
本殿右手前のこの「手洗い鉢」は何の変哲も無いが、これが最も古く
正徳四年と言うから1714年、大奥の「絵島事件」があった年。
「満行山大権現」との銘がある。
そう言えば鳥居の掲額にも「満行宮」とある。因みに鳥居は享保二年の銘。
1717年で大岡忠相が町奉行に執り立てられた年。
本殿前の賽銭箱、丸太の刳り貫きのようで、此れではドロ君も手が出まい。
正面右手には大きな「大山祗神」、嘉永四年(1851年)の作。
今の大河ドラマ篤姫に出てくる中浜万次郎が帰朝した年。
堅労地神、慶応四年の作。つまり明治元年と言う事。土地の守り神で
幕末辺りから豊作祈願の為に盛んに祠られたとか。
大黒天、制作年代不明。
黒髪神社
摩利支天 安政四年作。ハリスと下田条約を締結した年。
相馬山座主
文字道祖神、椿山文明書、宝歴三年(1753年)、吉宗死去の二年後。
双神道祖神、右側が割れていて修復の跡がある。「向き合形」で珍しいとか。
帰り際に振りかえるとこの石灯籠も古くて曰くありそう。
(3)随道の導水口
神社を辞してR-28を下り左側の広場風の所に駐車。丁度「松の沢三号橋」の
バス停前。山を背にして弁天様の像。額に鳥居を戴くと言われるが識別
出来ない。優しそうな顔なのに弓矢・刀を持つ八臂の坐像。
水路の右端に随道の導水口、榛東へのもので水利権で随分と紛争の
元だったとか。
読みにくい銘板は「榛名幹線一号」
(4)松沢寺跡
探すのが大苦労。何しろ寺院名鑑に「石上寺末寺、開基・創建詳かならず、
大正初期に廃寺」とある位だから。
「松の沢のお店の角を東に登る」と古い本に書いてあるが、現在この付近には
商店はなし。漸くバス停一つ歩いて元店舗らしき民家を発見、急坂を登ると
左に林道・日向線の道標。
漸く思い出した。この林道を西に行くと琴平山登山口だ。直進すると直ぐに
峠の頂点で先は両側崖。峠手前に戻ると東側の林の中は数カ所に分かれた
墓地。全部が清水家だ。松の沢寺の山号が「清水山」なのでこの辺と
思うが判らない。取り敢えず墓地内を偵察すると、墓地の中に墓石より
多いくらいの仏像が置かれている。幾つか写真にとって引き返す。
墓地の反対側のカーブの角に立派な石像が並んでいたので眺めていたら
突然後からおばあさんに声を掛けられた。それも「そりゃ高遠石工だよ」と。
意外な言葉に驚きながらおばあさん(こっちもおじいさんだが)に色々と
言い伝えを聞かせてもらった。
其れによると確かにここは松の沢寺の跡、但し廃寺になって久しいし、
地主さんが浜川の人なので連絡できず整備も侭ならないと。
寺跡の北側に住むこの清水さん(此の辺全部が清水さんとか)がかって家を
建てる時、整地の段階で地中から大量の石屑が出て大騒ぎになったそうだが
実は清水家のある所は近くの百観音制作の為に雇われた高遠石工の
作業場だったらしい。先ほどの峠の谷から石材を運び出してここで
作業したとか。133体の百観音は確かに高崎市指定「重要有形民俗文化財」に
指定されているが、所有は個人(これも清水さん)でその人が転居する時に
管理を委託されたが人手が足りずに当時の箕郷町に委託したとか。
かつて撮影した百観音の写真。
そのときの石工の中で亡くなった人は清水家の墓地内に無縁仏として
葬られているとの事、多分これらが該当か?
寺跡の石像群の中に弘法大師像、被っている毛糸の帽子はこの
おばあさんの作。
この大きな青面金剛搭は一旦倒壊し建てなおしのとき、村人が南向きを
東向きにしてしまったとはおばあさんの嘆き節。
連句の刻まれた石殿は此れらしいが全く読めない。
その他、数点の写真を撮って本日は終了。
記録を調べたら白川の竜沢寺4世が長野業政に依頼されてここに松沢寺を
開き松の沢藩の修学道場とした。その後、石上寺が隠居所を建て村人の
学問所とし、明治の初めには儒者の佐々木愚山が仮寓して子弟を教えた
事もあったが大正期に廃寺。
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