秋も深まりこの時期の恒例になっている菊花展が各地で開催されている。
東毛地区は伝統的に大規模な催しになっているらしいが、拙宅からの近場でも
小規模のものが開催されているので一寸覗いてみた。
最初に行ったのが磯部温泉の中にある磯部温泉会館前の広場。続いて少林山。
駐車場所の真ん前には小さな神社。掲額には赤城神社。
拝殿は極めて質素で入母屋、縋破風、桟瓦葺き。
この神社の裏手が磯部公園で通称が詩碑公園。折角だから菊花展見物前に一回り。
順不同で羅列。
◇水原 秋桜子(1892〜1981)俳誌『馬酔木(あしび)』を主宰。
1970年8月、「馬酔木」安中支部の招待で磯部簗に会食した時に詠んだ句。
公園北端の碓氷川傍の磯部簗近くにある。
「簗のうへ 峠の雷の とゝろける 秋桜子」
公園の正面入り口は神社側ではなくこの北端らしく公園に上る際にこの道標。
目の前には碓氷川、前面の橋は「あいさい橋」
◇北原 白秋(1885〜1942)
『雀の卵』の「葛飾閑吟集」中の一首。1937年、磯部温泉を訪れ、磯部館に
数日滞在したという縁。
「華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ 白秋」
◇ 山口 薫(1907〜1968)
群馬県箕郷町に生まれ、東京藝術大学で洋画を学び芸術選奨や文部大臣賞など
多くの賞を受賞している。
「我が家の庭」
夏草の しげれるまゝに 夏たけて クマとゆく道 薫
◇川田 順(1882〜1966)
東京下谷に生まれ、佐々木 信綱の門に学んだ歌人。浪漫的叙情の旅の
歌が特徴。
「冬ざれの 湯の町に向き 焼土の 層あらはなる 河原の小丘 川田 順」
◇湯浅半月(1858〜1943)
群馬県安中の醸造商家の四男として生まれ、同志社英学校神学科に進み、その
卒業式の席上、全編688行からなる一大長編叙事詩「十二の石塚」を、 朗読して
発表したことでも有名。
「空にたつ けむりの末に 見ゆる哉 あさまの峰の 秋のはつ風 半月」
◇室生 犀星(1889〜1962)
石川県に生まれ、詩人として「愛の詩集」「抒情小曲集」等で近代抒情詩を詠い、
小説の分野でも卓越。
「眼の見えぬ 酒は遠くに うき友の まなこはかっと 見ひらきにつつ 室生犀星 」
◇大手拓次、萩原朔太郎(1886〜1942)
1937年2月18日、萩原朔太郎が拓次の墓参をした折に書かれた色紙をそのまま
刻んだものらしい
(右)この日われに 耳なくて そのかげは しきりにも みだれ咲きけり 大手拓次
(左) ところもしらぬ 山里に さも白く咲きて ゐたるおだまきの花 萩原朔太郎
◇大手 拓次(1887〜1934)
「雀のお宿磯部館」の前身「蓬莱館」が生家の磯部出身の詩人。犀星・朔太郎とともに
白秋門下の三羽ガラス。 「陶器の鴉」は歌集「藍色の蟇」に収められたもの。
「陶器の鴉」
陶器製のあをい鴉、なめらかな 母韻を包んで おそひくる青からす、うまれたままの暖かさで
お前はよろよろする。 嘴の大きい、眼の大きい 悪巧みのありそうな青鴉。この日和のしづかさを 食べろ。
「このくるしさに たえやらで われはまた いたつきに ふすならん すべもなく たつきに いつしか‥ 」
◇萩原 博志(1919〜1980)
碓氷郡に生まれ、国鉄に入職した。在職中から小説を書き、1980年に没するまで
50数編の小説を残した。
◇松坂 一(1920〜1951)
横浜市に生まれ日大芸術科に入学し、作曲を池内友次郎に師事。疎開で下仁田に住み、
戦後に磯部へ移住。 「幼き夢」が全国音楽コンクールに入選したが、30歳で没。
小組曲管弦楽曲 松山 一作曲 「幼き夢」 第一旋律
◇吉野 秀雄(1902〜1967)
吉野籐で群馬県高崎市生まれ。 伊藤左千夫・正岡子規らアララギ派の作風に強い
影響を受けた歌人。 慶応義塾在学中に結核をわずらい後の一生の殆どを床の中で過ごす。
「岩に湧く 薬の水に 長き夜の 暗き燈かげは 射し及びたり 吉野秀雄 」
◇久保田 万太郎(1889〜1963)
東京浅草に生まれた、戯曲家や小説家・俳人。生涯東京の下町の人々を描いた作品が
多い。 この句は、1925年の句で、3、4年前の磯部を思い出して作ったと伝わる。
「温泉の 町の磧に尽くる 夜寒かな 久保田万太郎」
◇若山 牧水(1885〜1928)
宮崎県生まれの歌人。1917年6月7日、妙義山の登山を思い立ち、初めて磯部温泉を
訪れた。
「湯の町の葉ざくら暗きまがり坂曲り下れば渓川の見ゆ」
◇岡田 太京(1895〜1971)
下仁田に生まれ、この句は、 1965年上毛新聞群馬県文学賞を受賞。
「残菊や おのれ欺く 髪染めて」
公園の雰囲気。
公園の中ほどに温泉マーク発祥の地の石碑。
資料では1661年に江戸幕府から出された、
上野国碓氷郡の農民の土地争いに決着を付けるため評決文「上野国碓氷郡上磯部村と
中野谷村就野論裁断之覚」内の地図に2箇所の温泉マークらしき記号が存在したとの事。
因みに温泉マークの湯気が左から短く、長く、短くなっている」理由は、「温泉での
1回目の入浴は軽く、2回目はゆっくりと、3回目はサッと浸かって出るのがよいから
と言われるとか。
以上参考資料は安中市ホームページ「詩碑公園」
さて、公園を辞して菊花展会場へ。少林山を含めてデジブックでご覧下さい。
デジブック 『磯部温泉菊花大会』
東毛地区は伝統的に大規模な催しになっているらしいが、拙宅からの近場でも
小規模のものが開催されているので一寸覗いてみた。
最初に行ったのが磯部温泉の中にある磯部温泉会館前の広場。続いて少林山。
駐車場所の真ん前には小さな神社。掲額には赤城神社。
拝殿は極めて質素で入母屋、縋破風、桟瓦葺き。
この神社の裏手が磯部公園で通称が詩碑公園。折角だから菊花展見物前に一回り。
順不同で羅列。
◇水原 秋桜子(1892〜1981)俳誌『馬酔木(あしび)』を主宰。
1970年8月、「馬酔木」安中支部の招待で磯部簗に会食した時に詠んだ句。
公園北端の碓氷川傍の磯部簗近くにある。
「簗のうへ 峠の雷の とゝろける 秋桜子」
公園の正面入り口は神社側ではなくこの北端らしく公園に上る際にこの道標。
目の前には碓氷川、前面の橋は「あいさい橋」
◇北原 白秋(1885〜1942)
『雀の卵』の「葛飾閑吟集」中の一首。1937年、磯部温泉を訪れ、磯部館に
数日滞在したという縁。
「華やかにさびしき秋や千町田のほなみがすゑを群雀立つ 白秋」
◇ 山口 薫(1907〜1968)
群馬県箕郷町に生まれ、東京藝術大学で洋画を学び芸術選奨や文部大臣賞など
多くの賞を受賞している。
「我が家の庭」
夏草の しげれるまゝに 夏たけて クマとゆく道 薫
◇川田 順(1882〜1966)
東京下谷に生まれ、佐々木 信綱の門に学んだ歌人。浪漫的叙情の旅の
歌が特徴。
「冬ざれの 湯の町に向き 焼土の 層あらはなる 河原の小丘 川田 順」
◇湯浅半月(1858〜1943)
群馬県安中の醸造商家の四男として生まれ、同志社英学校神学科に進み、その
卒業式の席上、全編688行からなる一大長編叙事詩「十二の石塚」を、 朗読して
発表したことでも有名。
「空にたつ けむりの末に 見ゆる哉 あさまの峰の 秋のはつ風 半月」
◇室生 犀星(1889〜1962)
石川県に生まれ、詩人として「愛の詩集」「抒情小曲集」等で近代抒情詩を詠い、
小説の分野でも卓越。
「眼の見えぬ 酒は遠くに うき友の まなこはかっと 見ひらきにつつ 室生犀星 」
◇大手拓次、萩原朔太郎(1886〜1942)
1937年2月18日、萩原朔太郎が拓次の墓参をした折に書かれた色紙をそのまま
刻んだものらしい
(右)この日われに 耳なくて そのかげは しきりにも みだれ咲きけり 大手拓次
(左) ところもしらぬ 山里に さも白く咲きて ゐたるおだまきの花 萩原朔太郎
◇大手 拓次(1887〜1934)
「雀のお宿磯部館」の前身「蓬莱館」が生家の磯部出身の詩人。犀星・朔太郎とともに
白秋門下の三羽ガラス。 「陶器の鴉」は歌集「藍色の蟇」に収められたもの。
「陶器の鴉」
陶器製のあをい鴉、なめらかな 母韻を包んで おそひくる青からす、うまれたままの暖かさで
お前はよろよろする。 嘴の大きい、眼の大きい 悪巧みのありそうな青鴉。この日和のしづかさを 食べろ。
「このくるしさに たえやらで われはまた いたつきに ふすならん すべもなく たつきに いつしか‥ 」
◇萩原 博志(1919〜1980)
碓氷郡に生まれ、国鉄に入職した。在職中から小説を書き、1980年に没するまで
50数編の小説を残した。
◇松坂 一(1920〜1951)
横浜市に生まれ日大芸術科に入学し、作曲を池内友次郎に師事。疎開で下仁田に住み、
戦後に磯部へ移住。 「幼き夢」が全国音楽コンクールに入選したが、30歳で没。
小組曲管弦楽曲 松山 一作曲 「幼き夢」 第一旋律
◇吉野 秀雄(1902〜1967)
吉野籐で群馬県高崎市生まれ。 伊藤左千夫・正岡子規らアララギ派の作風に強い
影響を受けた歌人。 慶応義塾在学中に結核をわずらい後の一生の殆どを床の中で過ごす。
「岩に湧く 薬の水に 長き夜の 暗き燈かげは 射し及びたり 吉野秀雄 」
◇久保田 万太郎(1889〜1963)
東京浅草に生まれた、戯曲家や小説家・俳人。生涯東京の下町の人々を描いた作品が
多い。 この句は、1925年の句で、3、4年前の磯部を思い出して作ったと伝わる。
「温泉の 町の磧に尽くる 夜寒かな 久保田万太郎」
◇若山 牧水(1885〜1928)
宮崎県生まれの歌人。1917年6月7日、妙義山の登山を思い立ち、初めて磯部温泉を
訪れた。
「湯の町の葉ざくら暗きまがり坂曲り下れば渓川の見ゆ」
◇岡田 太京(1895〜1971)
下仁田に生まれ、この句は、 1965年上毛新聞群馬県文学賞を受賞。
「残菊や おのれ欺く 髪染めて」
公園の雰囲気。
公園の中ほどに温泉マーク発祥の地の石碑。
資料では1661年に江戸幕府から出された、
上野国碓氷郡の農民の土地争いに決着を付けるため評決文「上野国碓氷郡上磯部村と
中野谷村就野論裁断之覚」内の地図に2箇所の温泉マークらしき記号が存在したとの事。
因みに温泉マークの湯気が左から短く、長く、短くなっている」理由は、「温泉での
1回目の入浴は軽く、2回目はゆっくりと、3回目はサッと浸かって出るのがよいから
と言われるとか。
以上参考資料は安中市ホームページ「詩碑公園」
さて、公園を辞して菊花展会場へ。少林山を含めてデジブックでご覧下さい。
デジブック 『磯部温泉菊花大会』
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