天気も半端、時間も半端、読み掛けの「故宮奪還」の史実追跡にも
疲れたので一寸散歩に出掛けた。狙いは相も変わらず三角点タッチ遊びで
高崎西部や安中方面。
(1)八幡神社 四等・129.47m N-36-20-22-3 E-138-56-48-5
18号線を西進して小林山入り口を過ぎ「八幡大門」信号を右折して
神社境内に駐車。
この神社は「上野国一社八幡宮」で「八幡八幡宮」は通称。
957年に京都・岩清水八幡から勧請と伝わり、頼義・頼朝を始め新田・足利
武田等の関東一円の源氏一門から武神として崇敬されて来たとの事。
現在の「天地権現造り」と称せられる社殿は1757年の造営とか。
正面に「大八木やわら達人」と言われた霞新流・高橋宗助の掲額。
本堂の中には:県内最古と言われる1810年の小野栄重のものを含めて
算額が参枚、だが全て擦れて読めない。これは唯一僅かに読める1860年のもの。
右手の広大な竹薮には義家伝説の絡む「目白竹」があるとの事だが
多分これと思うが自信は無い。
さて、肝心の三角点はその點名にも拘わらずこの境内には無い。車道に出て
観音塚古墳資料館方面へ約200㍍登っていく。
その先の公園風の広場の隅に発見。フェンスの外からでないと刻字が
見えなかった。
(2)鷹の巣城址 四等・169.11m N-36-20-24-45 E-138-55-32-17
再び18号線に戻って西進、岩井信号で右折して10号線に入って丁字路を
171号線ヘ左折。城址の道標がなくて困惑。板鼻新田バス停の広場に
一旦駐車して観察。近くに「中山道板鼻宿」の記念碑。
少し鷹の巣橋方面に進むと小さな信号で右手に登る道。蛇行しながら登つて
右手に折れても標示は一切なし。団地の中を進んで坂の頂点から少し
入ったところで三角点発見。
近くのK氏宅を訪問して鷹の巣城址の事を聞いたら「今立っている所が本丸です」
と言われて吃驚。板鼻城と云われる城址は今や安中古城団地として開発され
往時を偲ぶ遺構などは全くないとの事。偶然にもこのK氏は文化センターのT氏の
ご親戚、このT氏、城址を尋ねる人の為に城址解説と周辺図を作ってK氏宅に
託しているとの事。当然ながら爺イもその恩恵に預かった。地形図の一部がこれ。
関連する所を尋ねると先ず近くの葡萄畑の中に「若宮八幡祠」
続いて古城稲荷や三の丸の「遠見石」を捜しに行ったが猛烈な夏草に遮られて
到達できなかった。この板鼻城、伝承では新田義重の庶長子・義俊が里見城を
構えた頃、その子・義成が築いた板鼻の館城が発祥。
戦国期には長野氏の本城・箕輪城防衛の重要拠点。1566年、信玄の
箕輪攻めで落城して武田の支配下。その武田も1582年に天目山で勝頼が
虐殺されて滅亡すると北条が城代を据えるが、1590年の秀吉の小田原攻めで
その北条も滅び、同時にこの城も廃城。今や周辺に城址の標示も無い不遇振り。
(3)安中 四等・147.49m N-36-20-00-8 E-138-54-25-3
この三角点、国土地理院資料では「不明」扱いだがダメ元で一応は挑戦。
18号線で安中駅高架を過ぎて「久芳橋」を渡ると「下野尻」、この辺だが
道路の拡張工事跡がハッキリしているので既に諦め。駐車場所が無いので
その先の遠丸団地南信号を右折して中学脇に駐車。
拡張で様相一変の現地を探索するも当然ながら発見出来ず。こんな
境界杭が一本ポツンとあっただけ。
(4)原市 四等・216.43m N-36-18-49-8 E-138-51-55-9
18号線で原市地区に入り警察署を過ぎセキチューのある「原市」信号
手前の「ワークマン」に駐車すると脇に小高い場所。小さな古墳跡の
感じがするが標示は無い。
荒れた丘の上に登ると草叢にひっそりと三角点。
(5)野殿村 三等・225.86m N-36-19-32-8 E-138-54-55-3
三角点名に「村」が付くとは珍しいが東邦亜鉛の南に当る安中・北野殿地区。
18号線を「城下」まで戻つて右折、丁字路にぶつかったところが旧中山道、
右折して伝馬町の郵便局で左折、新島学園前を通過して信越線踏み切りを渡り
野殿信号を直進して暫らくで左への細道を右往左往してようやく現地近く。
だが、夏草繁茂で全く歯が立たず、足探りで草に触れると薮蚊の大群が
湧き出して襲いかかってきてもう滅茶苦茶。それでも10分程は頑張ったが
発見出来ずに降参して撤退。
(6)下里見 四等・179.0m N-36-21-32-1 E-55-00-96
気分転換で今度は406号線沿線、但しここは又もや国土院は「不明」だから
ダメで元々の軽い気分。下秋間カントリーの大看板の信号を132号線へ。
ショートコースゴルフ場のネット脇から農道へ左折し右側に工場、左は
梨畑の所に路傍駐車。丁度通りかかった軽トラの人に様子を聞いたり
世間話。山手に登る道を教えてもらったが、別れ際に今収穫したと言う
梨をどっさりとお土産に貰い、「ガンバンなよ」と激励されて恐縮。
教えられた作業道を登って行くと山の上に何と忽然と八棟もあると見える
古びた市営住宅風の団地が現れて吃驚。
早速、探索開始するも矢張り手掛かりなし。子供達が集まってきたら見なれない
爺イの行動を訝る大人も加わって何事かと心配そう。子供の一人が上に罰点の
ある杭なら見た事があると言い出したのであっという間に大捜索団が結成され
大騒ぎ。「不明」で期待は出来ないとは言い出せない雰囲気。やがてさっきの子が
「見たのは遊びに行った別の所だ」と思い出してやっと解散。此方も断念。
直ぐ傍に赤鳥居、近付いたら「城山稲荷奥の院」、山の下にも鳥居がづらり。
(7)根岸 四等・191.52m N-36-22-08-6 E-138-54-13-98
連続の空振りに嫌気が差して最後と決めた中里見地区へ。
新幹線高架下の坂道を左折、左に左にと回りこんで農道に路傍駐車。
さて困った。目的地は桃や梨畑の250m先なのに作業道がないので
畑を横切る羽目になった。ネットで囲まれた収穫期の果樹園に入りこむのは
どう見ても果実泥棒に見えるだろう。
気兼ねしつつ、150㌢ぐらいと低い棚の下を中腰で走る。下地の整備は
完璧で雑草はないので楽勝の予感。だが、予定地は畑を抜けた草叢で
残念。さっきと同じで足探りは大量の薮蚊軍団を呼び寄せた。
相当頑張ったが発見できず、こんな蝶を追いまわして憂さ晴らし。
諦めて人に見咎められないうちに退散。結局、50k近くも走行し四時間も
かけて収穫が三箇所とは情けないが、巨人が最下位球団相手とは云っても
連勝したから、まあ良しとする。
疲れたので一寸散歩に出掛けた。狙いは相も変わらず三角点タッチ遊びで
高崎西部や安中方面。
(1)八幡神社 四等・129.47m N-36-20-22-3 E-138-56-48-5
18号線を西進して小林山入り口を過ぎ「八幡大門」信号を右折して
神社境内に駐車。
この神社は「上野国一社八幡宮」で「八幡八幡宮」は通称。
957年に京都・岩清水八幡から勧請と伝わり、頼義・頼朝を始め新田・足利
武田等の関東一円の源氏一門から武神として崇敬されて来たとの事。
現在の「天地権現造り」と称せられる社殿は1757年の造営とか。
正面に「大八木やわら達人」と言われた霞新流・高橋宗助の掲額。
本堂の中には:県内最古と言われる1810年の小野栄重のものを含めて
算額が参枚、だが全て擦れて読めない。これは唯一僅かに読める1860年のもの。
右手の広大な竹薮には義家伝説の絡む「目白竹」があるとの事だが
多分これと思うが自信は無い。
さて、肝心の三角点はその點名にも拘わらずこの境内には無い。車道に出て
観音塚古墳資料館方面へ約200㍍登っていく。
その先の公園風の広場の隅に発見。フェンスの外からでないと刻字が
見えなかった。
(2)鷹の巣城址 四等・169.11m N-36-20-24-45 E-138-55-32-17
再び18号線に戻って西進、岩井信号で右折して10号線に入って丁字路を
171号線ヘ左折。城址の道標がなくて困惑。板鼻新田バス停の広場に
一旦駐車して観察。近くに「中山道板鼻宿」の記念碑。
少し鷹の巣橋方面に進むと小さな信号で右手に登る道。蛇行しながら登つて
右手に折れても標示は一切なし。団地の中を進んで坂の頂点から少し
入ったところで三角点発見。
近くのK氏宅を訪問して鷹の巣城址の事を聞いたら「今立っている所が本丸です」
と言われて吃驚。板鼻城と云われる城址は今や安中古城団地として開発され
往時を偲ぶ遺構などは全くないとの事。偶然にもこのK氏は文化センターのT氏の
ご親戚、このT氏、城址を尋ねる人の為に城址解説と周辺図を作ってK氏宅に
託しているとの事。当然ながら爺イもその恩恵に預かった。地形図の一部がこれ。
関連する所を尋ねると先ず近くの葡萄畑の中に「若宮八幡祠」
続いて古城稲荷や三の丸の「遠見石」を捜しに行ったが猛烈な夏草に遮られて
到達できなかった。この板鼻城、伝承では新田義重の庶長子・義俊が里見城を
構えた頃、その子・義成が築いた板鼻の館城が発祥。
戦国期には長野氏の本城・箕輪城防衛の重要拠点。1566年、信玄の
箕輪攻めで落城して武田の支配下。その武田も1582年に天目山で勝頼が
虐殺されて滅亡すると北条が城代を据えるが、1590年の秀吉の小田原攻めで
その北条も滅び、同時にこの城も廃城。今や周辺に城址の標示も無い不遇振り。
(3)安中 四等・147.49m N-36-20-00-8 E-138-54-25-3
この三角点、国土地理院資料では「不明」扱いだがダメ元で一応は挑戦。
18号線で安中駅高架を過ぎて「久芳橋」を渡ると「下野尻」、この辺だが
道路の拡張工事跡がハッキリしているので既に諦め。駐車場所が無いので
その先の遠丸団地南信号を右折して中学脇に駐車。
拡張で様相一変の現地を探索するも当然ながら発見出来ず。こんな
境界杭が一本ポツンとあっただけ。
(4)原市 四等・216.43m N-36-18-49-8 E-138-51-55-9
18号線で原市地区に入り警察署を過ぎセキチューのある「原市」信号
手前の「ワークマン」に駐車すると脇に小高い場所。小さな古墳跡の
感じがするが標示は無い。
荒れた丘の上に登ると草叢にひっそりと三角点。
(5)野殿村 三等・225.86m N-36-19-32-8 E-138-54-55-3
三角点名に「村」が付くとは珍しいが東邦亜鉛の南に当る安中・北野殿地区。
18号線を「城下」まで戻つて右折、丁字路にぶつかったところが旧中山道、
右折して伝馬町の郵便局で左折、新島学園前を通過して信越線踏み切りを渡り
野殿信号を直進して暫らくで左への細道を右往左往してようやく現地近く。
だが、夏草繁茂で全く歯が立たず、足探りで草に触れると薮蚊の大群が
湧き出して襲いかかってきてもう滅茶苦茶。それでも10分程は頑張ったが
発見出来ずに降参して撤退。
(6)下里見 四等・179.0m N-36-21-32-1 E-55-00-96
気分転換で今度は406号線沿線、但しここは又もや国土院は「不明」だから
ダメで元々の軽い気分。下秋間カントリーの大看板の信号を132号線へ。
ショートコースゴルフ場のネット脇から農道へ左折し右側に工場、左は
梨畑の所に路傍駐車。丁度通りかかった軽トラの人に様子を聞いたり
世間話。山手に登る道を教えてもらったが、別れ際に今収穫したと言う
梨をどっさりとお土産に貰い、「ガンバンなよ」と激励されて恐縮。
教えられた作業道を登って行くと山の上に何と忽然と八棟もあると見える
古びた市営住宅風の団地が現れて吃驚。
早速、探索開始するも矢張り手掛かりなし。子供達が集まってきたら見なれない
爺イの行動を訝る大人も加わって何事かと心配そう。子供の一人が上に罰点の
ある杭なら見た事があると言い出したのであっという間に大捜索団が結成され
大騒ぎ。「不明」で期待は出来ないとは言い出せない雰囲気。やがてさっきの子が
「見たのは遊びに行った別の所だ」と思い出してやっと解散。此方も断念。
直ぐ傍に赤鳥居、近付いたら「城山稲荷奥の院」、山の下にも鳥居がづらり。
(7)根岸 四等・191.52m N-36-22-08-6 E-138-54-13-98
連続の空振りに嫌気が差して最後と決めた中里見地区へ。
新幹線高架下の坂道を左折、左に左にと回りこんで農道に路傍駐車。
さて困った。目的地は桃や梨畑の250m先なのに作業道がないので
畑を横切る羽目になった。ネットで囲まれた収穫期の果樹園に入りこむのは
どう見ても果実泥棒に見えるだろう。
気兼ねしつつ、150㌢ぐらいと低い棚の下を中腰で走る。下地の整備は
完璧で雑草はないので楽勝の予感。だが、予定地は畑を抜けた草叢で
残念。さっきと同じで足探りは大量の薮蚊軍団を呼び寄せた。
相当頑張ったが発見できず、こんな蝶を追いまわして憂さ晴らし。
諦めて人に見咎められないうちに退散。結局、50k近くも走行し四時間も
かけて収穫が三箇所とは情けないが、巨人が最下位球団相手とは云っても
連勝したから、まあ良しとする。
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