クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

ぶらり子持の石像物探訪(2) H-20-9-8

2008-09-09 13:19:49 | 伝説・史跡探訪
(3)玉山神社



17号線を数キロ北上して暮沢バス停脇の雑貨屋さんの先に玉山神社、



ところが駐車場所がない。此の辺は17号線が尤も狭いところ。仕方なく
少し先からUターンして200㍍離れたモツ煮の「永井商店」に駐車。
往来する車を避けながら神社に来ると草茫々で寂れている感じ。




雑貨屋さんの人と雑談したら「近頃、猪が集団で降りてきてるから
絶対に山に入ってはならねーよ」とキツイお達し。

短い参道脇に史跡指定の「芭蕉霊神塚」、高さ1.33m、巾0.69m



安政3年(1856年)に門下の後藤錦州が建立。写真では判り難いが
両脇に一句彫り込まれている。「馬遠普弊 詠類雪能 阿志多可難」
読みは「馬をさえ 眺むる雪の あしたかな」。



さて、草生した狭い境内の石垣下には石像がズラリ。



文化9年と読める深彫りの庚申搭



道祖神や観音像




これが噂の「サルの丸彫り」?



目的の岸壁に彫られた磨崖仏を探す登路がわからない。案内書に
西の沢を数十㍍登るとあるが肝心の沢は崩落防止の大きな堰堤が
出来ていて西はコンクリートの壁で手の打ち様もない。西がダメなら
東からとばかりに石宮の脇を通って薮の急登を登って上から到達しようとした。



ところが、それは余りに無謀だった。凄まじい薮を突破しても



上は岩の塊が壁となり廻り込めなくて撤退。こんなに遠くまで来てここで
諦める訳には行かない。今度は雑貨屋さんの下手から沢に近付き
小橋の上から堰堤周辺をじっくりと観察。



必ずある筈の堰堤管理用の階段を草叢の中で探す。金網沿いに足で探っていくと
コンクリート段を発見、堰堤の上に出ると反対側に下る段も発見。下に降りると
薄暗い竹薮に明瞭な踏み跡。崩れそうな丸太橋で沢を渡って奥に登って行くと
気味の悪いような場所に半分崩れかかった様な「不動堂」発見。



一寸右手をみたらこんな注連縄の張られたいわくありげなところ。



その上は説明にあったものらしい大岩隗。薄暗いので目を凝らしてじっと
眺めると風化の激しい磨崖仏発見。ここには30体以上とされるが
傷みが激しく苔生しているので数個しか識別できない。写真に写ったのは
これだけ。




この大岩の上に「御岳三坐神」があり、山上には富士浅間神社の三神の
像があると伝わるが薄暗い中で登路も判らず断念して駐車場所に戻り
浅田地区に向かった。


(4)大頭竜神社



17号線を渋川に向かい、浅田信号を左折して17号新道を突っ切ると
複雑な田舎道、紆余曲折して漸く小さな神社前。



大頭竜神社とは珍しい名前だが別名「オカミ神社」とかで「水・雨・雪」を
司さどり「祈り雨・止め雨」の神とか。寛永2年(1749年)創建というから
吉宗・忠相コンビが相次いで亡くなる二年前の事。
石像は多いが良く判らない。これは陰陽石の片割れ?




隣の薬師堂にも十七夜供養搭などの石像が並ぶ。




少し離れたところの墓地奥に小さな像の十三王が並んでいた。



その中で奪衣婆と閻魔様がやや大きいが




他は30㌢ぐらいで良く見ないと面相の違いも判らない。
並べてみますが識別できますかね?






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