
今日も飽きずに三角点、但し午後は多忙につき午前中のみ。
多忙と言ったつて何処かに出かけるわけではない。二時からは
ラグビーの関東大学対抗戦で母校の優勝を見届けなくてはならないし
三時からはゴルフ日本シリーズでの遼クンの賞金王決定シーンを
見たいだけのこと。
(6)三等 點名・新山 278.09m N-36-18-05-1 E-138-56-58-8
安中市大谷字新山

先日と同じにR—10を南下、富岡との境界から2.3Kの藤木信号で
左折。ここからはR-49(藤木・高崎線)を3.5K走ると丁字路。
ここは富岡・安中・吉井の分岐点で左右への道はR-171(吉井・安中線)。
三叉路の右に吉井・上奥平の道標。

安中側の角にお地蔵様。

その脇に「みちしるべ」があり四面に刻字があるが「右高崎板鼻方面」
とか「左下奥平吉井方面」などの文字しか読み取れない。しかし、
「道」ではなく「方面」とあるので、さして古いものでは無く恐らく
大正末から昭和初期のものだろう。或いは戦時中に盛んだった
青年団活動の一環か?

吉井側の屋根つきの待遇を受けているのは、大形で上半分に仏像、
下半分に道しるべらしいが、「右」以外の文字が判らない。
後日調査予定。
追記:
萩原進著「みちしるべ」より
場所は吉井町上奥平字大黒。舟形石像は「如意輪観音」。
その下に刻まれた道しるべは「右東北高崎道、右西富岡下仁田路、
左南小幡、福島途」であり「みち」を「道・路・途」と使い
分けているのが特徴。裏面には道標建立の由来と建立者・高崎
中紺屋町の「勘兵衛ほか」の名が彫られている。

さてそんな余所見はさておいて、肝心の三角点はこの丘の上。
だが、雨上がりにこんな藪はご免蒙る。

尾根の垂れを探しながら大黒方面に百㍍弱、ちゃんと山道があつた。
多分、安中・吉井の境界線。道は緩やかに丘の上に伸びている。

頂上らしい切り払われた場所で難なく三角点発見。この道は更に西へ綺麗に
延びていた。


(7)四等 點名・下間仁田 203.4m N-36-18-45-2 E-138-53-48-3
安中市大竹字清水久保

一旦、R-18に戻って西進、「下野尻」信号から斜め左に入って
旧中山道のR-125(一本木平小井戸安中線)を進み、安中郵便局先の
「伝馬」信号を左折してR-212(安中富岡線)、新島学園を過ぎ、
踏切を渡って「野殿」信号を右折して南進。
この看板辺に路傍駐車。矢印とは反対の西への細道に入る。

今時、珍しくなった桑畑の中で簡単に三角点発見。


(8)四等 點名・下平 205.69m N-36-18-26-3 E-138-53-06-5
安中市鷺宮字下平

更にR-212を南下、上平で右折して最初の四つ角で切り返しで
北上。大きな車道との合流点に駐車して目印の繁桂寺を探すも
看板も無く、山手にあるらしく道路からは判らない。
近くに墓地に通ずるらしい山道を発見、石像が並んでいた。

こんな道を山手に登るが轍跡もあるので農道だろう。

現地は竹薮だった。慎重に観察して入れる隙間を探す。

僅かの距離で発見。土壌が流されてしまったのか、背高クン。


(9)四等 點名・日影 243.72m N-36-17-34-3 E-138-53-04-0
安中市鷺宮字下林

再びR-212に戻って南進、「上間仁田」信号で右折して直ぐに
「南安中農免道路」へ。路傍にある筈なので気楽に現地に駐車。
だが、予定地は盛り土された畑地で三角点は見つからず。
太い竹棒一本と横倒しにされた「群巾」のコンクリート柱。

その場所のコンクリートの塊に真鍮らしき鋲の打ち込まれたこんな
マーク、何だろう?

国土院の記録では「正常」なのにおかしい。序に上間仁田交差点にある筈の
二等水準点 点名699を探したがこれも空振り。
そこにあつたのは刻字の判読できない「みちしるべ」だけ。

(10)三等 點名・高別当 186.14m N-36-19-33-1 E-138-52-42-2
安中市高別当字南伊勢原

再びR-18に戻って「高別当」信号でR-48(下仁田安中倉渕線)を
北上、目印の天照寺を探すも見つからない。だが、細道に
入ると墓地群。その脇の細道を進む。

登りきって農地の中を捜すと、個人宅の敷地の中で発見。
珍しく石の土台付き。


ここで正午近くなったので大急ぎで帰宅。予定のシーンが見られて
至極満足。遼クンは既に昨日の時点でほぼ決まっていたが
ラグビーの方は前半で3-14の劣勢でハラハラ、だが終わってみれば
16-14での大逆転で二年ぶりの優勝。次は全国学生選手権が待っている。
多忙と言ったつて何処かに出かけるわけではない。二時からは
ラグビーの関東大学対抗戦で母校の優勝を見届けなくてはならないし
三時からはゴルフ日本シリーズでの遼クンの賞金王決定シーンを
見たいだけのこと。
(6)三等 點名・新山 278.09m N-36-18-05-1 E-138-56-58-8
安中市大谷字新山

先日と同じにR—10を南下、富岡との境界から2.3Kの藤木信号で
左折。ここからはR-49(藤木・高崎線)を3.5K走ると丁字路。
ここは富岡・安中・吉井の分岐点で左右への道はR-171(吉井・安中線)。
三叉路の右に吉井・上奥平の道標。

安中側の角にお地蔵様。

その脇に「みちしるべ」があり四面に刻字があるが「右高崎板鼻方面」
とか「左下奥平吉井方面」などの文字しか読み取れない。しかし、
「道」ではなく「方面」とあるので、さして古いものでは無く恐らく
大正末から昭和初期のものだろう。或いは戦時中に盛んだった
青年団活動の一環か?

吉井側の屋根つきの待遇を受けているのは、大形で上半分に仏像、
下半分に道しるべらしいが、「右」以外の文字が判らない。
後日調査予定。
追記:
萩原進著「みちしるべ」より
場所は吉井町上奥平字大黒。舟形石像は「如意輪観音」。
その下に刻まれた道しるべは「右東北高崎道、右西富岡下仁田路、
左南小幡、福島途」であり「みち」を「道・路・途」と使い
分けているのが特徴。裏面には道標建立の由来と建立者・高崎
中紺屋町の「勘兵衛ほか」の名が彫られている。

さてそんな余所見はさておいて、肝心の三角点はこの丘の上。
だが、雨上がりにこんな藪はご免蒙る。

尾根の垂れを探しながら大黒方面に百㍍弱、ちゃんと山道があつた。
多分、安中・吉井の境界線。道は緩やかに丘の上に伸びている。

頂上らしい切り払われた場所で難なく三角点発見。この道は更に西へ綺麗に
延びていた。


(7)四等 點名・下間仁田 203.4m N-36-18-45-2 E-138-53-48-3
安中市大竹字清水久保

一旦、R-18に戻って西進、「下野尻」信号から斜め左に入って
旧中山道のR-125(一本木平小井戸安中線)を進み、安中郵便局先の
「伝馬」信号を左折してR-212(安中富岡線)、新島学園を過ぎ、
踏切を渡って「野殿」信号を右折して南進。
この看板辺に路傍駐車。矢印とは反対の西への細道に入る。

今時、珍しくなった桑畑の中で簡単に三角点発見。


(8)四等 點名・下平 205.69m N-36-18-26-3 E-138-53-06-5
安中市鷺宮字下平

更にR-212を南下、上平で右折して最初の四つ角で切り返しで
北上。大きな車道との合流点に駐車して目印の繁桂寺を探すも
看板も無く、山手にあるらしく道路からは判らない。
近くに墓地に通ずるらしい山道を発見、石像が並んでいた。

こんな道を山手に登るが轍跡もあるので農道だろう。

現地は竹薮だった。慎重に観察して入れる隙間を探す。

僅かの距離で発見。土壌が流されてしまったのか、背高クン。


(9)四等 點名・日影 243.72m N-36-17-34-3 E-138-53-04-0
安中市鷺宮字下林

再びR-212に戻って南進、「上間仁田」信号で右折して直ぐに
「南安中農免道路」へ。路傍にある筈なので気楽に現地に駐車。
だが、予定地は盛り土された畑地で三角点は見つからず。
太い竹棒一本と横倒しにされた「群巾」のコンクリート柱。

その場所のコンクリートの塊に真鍮らしき鋲の打ち込まれたこんな
マーク、何だろう?

国土院の記録では「正常」なのにおかしい。序に上間仁田交差点にある筈の
二等水準点 点名699を探したがこれも空振り。
そこにあつたのは刻字の判読できない「みちしるべ」だけ。

(10)三等 點名・高別当 186.14m N-36-19-33-1 E-138-52-42-2
安中市高別当字南伊勢原

再びR-18に戻って「高別当」信号でR-48(下仁田安中倉渕線)を
北上、目印の天照寺を探すも見つからない。だが、細道に
入ると墓地群。その脇の細道を進む。

登りきって農地の中を捜すと、個人宅の敷地の中で発見。
珍しく石の土台付き。


ここで正午近くなったので大急ぎで帰宅。予定のシーンが見られて
至極満足。遼クンは既に昨日の時点でほぼ決まっていたが
ラグビーの方は前半で3-14の劣勢でハラハラ、だが終わってみれば
16-14での大逆転で二年ぶりの優勝。次は全国学生選手権が待っている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます