クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

第14回 箕輪城まつり  2016     H-28-10-30

2016-11-01 13:09:41 | 伝説・史跡探訪
快晴の日曜日(10/30)、例年の通り箕輪城祭りの見物。駐車場確保の為にやや早めの
出発。昨年と同じく城址と箕郷支所の中間に場所を借りて出陣の起点に向かう。

支所に設けられた本部でポスターやパンフレットをゲットして出てくると早くも
一団が揃い踏みで記念撮影の最中だったので割り込みで一枚。うっかりして
団体名の確認をしなかったが扮装の揃い方から玉村の愛好会?



定刻近くになると出陣式会場に段々と参加者が集結を始める。



おっと、新顔を発見。幟が裏返しに写っているが沼田からの「上州真田武将隊」。
NHK「真田丸」で御馴染みの真田信之と小松姫を中心とした沼田の盛上げ隊。
そう云えば「上州沼田真田祭り」は11/12-13とか。



攻防戦の一騎打ちなどで大活躍する「本格甲冑格闘集団・式」も揃っている。
着物姿の女性は攻防戦の中で一旦は武田軍に囚われ乱戦の中で脱出する姫役。
左から二人目の女武者の女性は合戦に参加して抜群の運動量で男子に対抗して
喝采を浴びたり最後の娘子軍との一戦では叩かれるやられ役で長野贔屓の
観客を喜ばせて盛り上げる。



始めて見るこの幟は「百足」? とすると戦国時代を扱った小説に必ず出てくる
「むかで組」とか「むかで衆」といわれる当時の諜報機関・伝令・奇襲隊だな。
どうも寄居の鉢形勢の一員らしい。



常連の群馬甲冑愛好会の先発隊が何人か。



例年通り箕輪城に関わった諸武将・戦士の慰霊神事を行う「箕郷町御嶽教講社」。



出陣式次第が着々と進むが例年挨拶に立つ福田達夫議員は欠席。
参加者集団は出発点に移動。

恒例の和弓礼射。



和弓礼射


寄居鉢形城三鱗会の組織と思われるが幟をみると「時代祭 絆の会」という
火縄銃砲術隊と思われる。



「火蓋を切る」の号令のタイミングがどうもしっくり来ないが、「火蓋を切れ」とは
本来は「火縄銃の火皿を覆う蓋を開け」と云う事で「火蓋を切れ」は即発射ではなかった。
これが物事の着手・行動の開始の意味になるのは遥か後年のことであるそうだ。

火縄銃礼射


小板橋靖雄氏製作の大砲が鳴り響くと子供囃子を先導として武者行列がスタート。
沿道の観客は例年に比べてやや少なく一寸ばかり拍子抜け。

武者行列


行列の各隊の様子。(サムネイルを左クリックで拡大、上部の左向き矢印で元に戻る)



途中の小休止を経て登山口になっている大手口「虎韜門口」に到着して
子供囃子に迎えられて隊列整えや小休止。



やがて御嶽講社の方々の法螺貝が鳴り響いて出発準備。



台地の上では小板橋氏の大砲が待機中。



号砲一発を合図に隊列は険しい坂道を登っていく。





三の丸から二の丸に達して再び隊列を整えて本丸に入る。本丸ではテント内の
観客席は満員、既に11時から始まっているアトラクションが進行し、丁度
「箕輪城太鼓保存会」の演奏の中、隊列は本丸の観客席の前を通過して
西端の御前曲輪に集結する。



御前曲輪では隊列は解散してグループ毎の昼食・休憩。子供の参加が多いので
父兄共々ピクニックの風情。



この間、本丸でのアトラクションはどんどん進行し箕輪武士演舞・新陰流演武
獅子舞奉納・火縄銃演武などが観客の喝采を浴びている。
こちらも日当たりの土手で軽食を採って再び御前曲輪に戻ると白い陣羽織の
ディレクターさんを中心にして攻防戦の打ち合わせとリハーサルの最中。



漸く13.30の開会式も近くなったので本丸に移動。木陰に前群馬県知事清水一郎氏の
揮毫による城址の石碑。



丁度アトラクションから帰ってきた時代祭絆の会の面々を一枚。



開会式が始まり壇上にズラリと関係者が並ぶ。柳沢会長さんの相も変らぬ弁舌の
冴えには感心するばかり。



来賓祝辞や紹介が延々と続くので周りを見渡すと今年もナレーションを担当する
講談師の神田山緑さんが準備完了で余裕。



初めて伝令役を任せられた新入職員さんにも緊張はない模様。



やがて清水好明氏製作の大砲が鳴ると一気に雰囲気は変わる。



長野業盛役の「式」のリーダーさんによる着到状の読み上げ。受け取る長野業政役は
高崎市長の富岡さん。



読み上げ終了の「式・リーター」さん、これから上泉秀綱に扮して長時間激闘する
から大変だな。



間髪を入れず伝令が走りこんで武田軍の接近を伝える。新人さん、野球のスラディングの
要領で疾走から殿の御前に滑り込み成功。



業政の音頭で抜刀して気勢を上げて必勝を誓う。



ディレクターさんの総指揮の下、神田さんの名調子に乗せられて前後七回にも及ぶ
攻防戦が展開。脚本もこの方の労作。今年は撮影の位置取りが大失敗。例年では
主戦場が舞台正面なのに今年は長野勢の攻め込みが深くて主戦場がずっと
武田陣営に寄ってしまい此処からは集団戦後陣のサボり具合しか写せなかった。

岩櫃城の戦い


信綱と幸全一騎打ち


一郷山城の戦い


箕輪城攻防戦


上泉秀綱


娘子軍


全ての戦闘が終わって長野勢が気勢を上げて全てを終了。





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蛇足・ビデオ関連でのクタビレ爺イの歴史メモ

真田信綱 (幸隆長男)
1574年に幸隆の死去に伴い正式に真田家の家督を継いだがその一年後、1575年に
長篠の戦いに真田の兵を率いて参戦した。三尺三寸の陣太刀を振って奮戦し、
馬防柵を次々なぎ倒しながら敵陣に迫るが鉄砲部隊の銃撃によって弟の昌輝と共に
戦死。享年39。設楽原古戦場に残る墓碑には、『真田源太左衛門尉信綱の碑』と
刻まれている。1537年生まれであるから本日の舞台の羽尾幸全との戦いが
1563年とすれば家督を継ぐ前と言え27歳の時となり辻褄は合う。
真田家の家督は勝頼の命令により信綱の幼児らに受け継がれる事は認められず、
武藤家を継いで武藤喜兵衛を名乗っていた同母弟の幸隆三男の昌幸が継承した。
ここで大河ドラマで大人気の真田昌幸が歴史に躍り出て信之・信繁と繋がる。

羽尾幸全
1541年、海野平合戦で武田信虎・村上義清・諏訪頼重らの連合軍に追われた
滋野一族の海野棟綱、その子真田幸隆は、鳥居峠を越えて吾妻郡の同族である
羽根尾城の「羽尾幸全」を頼った。幸全は幸隆らを庇護し、のちに寄親の
長野業政の箕輪城に身柄を預けたが、海野平の奪還をめぐって、
関東管領・上杉氏を頼ろうとする父・海野棟綱と武田信玄を頼ろうとする
真田幸隆の意見が対立、幸隆は箕輪城を出て、武田信玄の被官となった。
幸隆はその後、信濃先方衆、上州先方衆として小県から吾妻にかけての攻略を
命ぜられ、大恩のある羽尾幸全、長野業政らと闘うことになる。幸隆の当面の
課題は岩櫃城の攻略にあったが、岩櫃城の斎藤氏と鎌原城の鎌原氏の対立を
利用して侵攻、1563年に羽根尾城、長野原城周辺で合戦となり
羽尾幸全は戦死したとも、越後上杉氏を頼って落ち延びたとも言われる。
その後は幸隆は岩櫃城、箕輪城を攻略し、吾妻一帯を支配した。

岩櫃城の戦い
武田信玄は1561年に真田幸隆を上州先方衆として派遣、岩櫃城を攻撃させた。
真田幸隆は二度に渡り力攻めを行うが、天嶮と上杉謙信配下の沼田城・
白井城の援軍の奮戦などで攻撃を中断、和議を申し入れた。その間、
岩櫃城に籠っていた斎藤一族の斎藤則実、海野一族で羽尾幸全の子、
海野幸光・輝幸兄弟の内応を得て、1563年500の手勢で奇襲、内応者が
城に火を放ち落城した。斎藤憲広の子・城虎丸は残党に護られ嵩山城に逃れた。
この城虎丸が後日、嵩山の大天狗から身を投げて自決したという伝説を
生んで現在もその悲劇が悼まれている。
この時裏切った幸光・輝幸であるが、その後は真田氏の有力家臣として
活躍し幸隆の子昌幸の代には岩櫃城、沼田城の城代になっている。

一郷山城の戦い
一郷山城は、現在の吉井の「牛伏山」。ここは多比良城の要害城で、
吉井町の南にある東西に長い峰の山塊に位置する小規模な砦であった。
1563年、武田信玄は見銘寺の水の手を占領して攻め立てた。
城兵は大石を落として寺もろとも寄せ手を押し潰したところ、
火が出て山を焼き、城も炎に包まれ、城将・安部之友以下ことごとく討死して
落城。伝説では城には城主安倍之友以下300の城兵がこもっていたが、城内には
水が出ないため麓の見銘寺まで汲みに下りて行った兵は、皆武田兵に
討ち取られてしまった。
人はそれを「水汲みに行くのが地獄の一の木戸 行くとは見えて帰る人なし」 
と詠んだ。
但し同じ歌を詠んだ石碑が箕輪城の水の手郭の南にもある。
この城址は郭、堀切、土塁、竪堀、虎口などが残り、中世の山砦として良好な
遺構を残していたが、現在では、模擬天守・自動車道路建設のため、
遺構は破壊されてほとんど無い。模擬天守を建造するために、遺構を破壊した
という最悪のケースである。この時代には天守閣など存在しなかったのに。

多比良友定
新堀城主。新堀城は平井城の別城で、また一郷山城は新堀城を主とする別城となっている。
さらに瀬戸城-中ノ原城-平井金山城-平井城という堅固な城を形成した。
1563年に一郷山城と共に武田信玄に攻められて焼け落ちる。城主・多比良友定は
長野業政とは従兄弟になる。新堀城は上杉家の宝物を収蔵しており武田に
さらわれていては末代の恥となると、宝物を焼き捨て子女を自害させ
多比良友定は割腹して果てた。

真田幸村
一般には「真田幸村」の名が広く知られているが、「信繁」が正しい。
直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無く、
先日の大河ドラマの様に信繁が幸村と宣言したことの証明にはならない。
「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った
、1672年刊行の軍記物『難波戦記』以降であるがこの名乗りを実際に使用した
形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている。推定では
武田信玄の弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者はその旧主家一門の著名な
同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが否定されて幸村が
案出されたのであろうと思われる。

箕輪城歴代の支配者

1512年 戦国時代中期、当地を支配する長野氏の長野業尚により築城

1566年、武田軍は箕輪城への総攻撃を仕掛け、頼みの上杉謙信の援軍を待たずして
遂に落城し城主・業盛は自刃。箕輪城は武田氏の上野経営の拠点と位置づけられ、
甘利昌忠、真田幸隆、浅利信種が城代。
1570年頃には内藤昌豊が城代となるが、1575年の 長篠の戦いで昌豊が
討ち死にすると、その子内藤昌月が城代。

1582年の天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、織田信長の家臣・
滝川一益が上野一国を拝領し箕輪城を接収、次いで厩橋城に入った
しかし、同年信長が本能寺の変で倒れると、北条氏政とその子北条氏直の大軍が
上野国に侵攻。北条氏が神流川の戦いで一益を破ると、北条氏政の弟・氏邦が
箕輪城に入城。

1590年 秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の
攻撃により開城した。この年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石を
もって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に改造したが、
1598年高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の
歴史に終止符を打った。

1987年)、国の史跡に指定され2006年に日本100名城に選定。

誠に数奇な変遷であるが地元では善政を施いた長野氏以外は通り過ぎた
占領軍であるので想いは長野氏に集中。
但し、今年の大河ドラマが真田で来年は「おんな城主 直虎」という
箕輪城最後の城主井伊直政の養母が描かれるので地元振興としては複雑。
























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