六年振りに神話の山・梓山に行くことにした。去年は北周りで試みたが
約4kの林道歩きと窪への落ち込みが災いして撤退しているので。
榛名湖畔を北岸に回って「ゆうすげ」近辺に駐車。未だ若葉の芽吹きも少なく
景観は冬景色の儘だが連休時期とあって時間は早いのに観光客は多い感じ。
目の前の烏帽子ケ岳の姿を見上げながら出発。天気は大丈夫らしい(9.45)。
湖畔周回道路を彩る満開のスイセンの先に赤鳥居が見える。そこが登山口。
四基の鳥居のうち、二基が倒壊したままになっているが掲額は「加護丸稲荷」。
加護丸の意味は相変わらず判らないが烏帽子への笹道や頂上直下の岩場にも
同じ鳥居があるのでどなたかの記事にあった「山全体が稲荷信仰の御神体」と
云うのが正しい捉えかたの様だ。
鳥居の奥に稲荷信仰定番の陶器の白狐が多数収められている。ハイクの無事を
祈って爺イも殊勝に頭を下げる。
右折して暫くでこの道標を見て山手の登山道に入る。道標の表示は
何故か「烏帽子山」。
登山道は軽い登りで水路の溝の脇にしっかりと歩き易く固められている。
周辺は未だ冬景色で花は少なく、本日見たのは湖畔のスイセンを除くとこれだけ。
やがて鬢櫛と烏帽子の鞍部に到着(10.09)。ここから第一ポイントの1246m峰まで
直線距離で600m程。
直ぐ脇に昔からある鬢櫛への案内道標。かなり古い筈かだが造りが良いのか、素材が
良いのか? 老朽の気配は全く無く我が身に比べて羨ましい限り。
右(東)にはやや険しい烏帽子ケ岳。
左(西)はおとなしい鬢櫛山の姿。
一呼吸置いていよいよ梓山へ出発。ここからは時々は登りもあるが全体的には
東吾妻町の旧東村に向かって下りであるので往路は楽だが帰路には苦労する。
乗り越し地点からの踏み跡は全く消えていて唯の笹原となっていた。多分、こんな
所を歩く人は稀なんだろうな。これでは笹が勢いを増す夏場には益々
判らなくなるだろう。
少し下ると道形が出てくるが荒地同然なので初めて来れば足が止まるかも。
目印の大岩の脇を通過。
前方に見えてきたあの稜線が烏帽子ケ岳から北に伸びる稜線で今日のルート。
この目印テープの所で稜線に合流、このルートにはやや古いが赤とオレンジの目印が
絶えることなく梓山まで続いている。
数多い目印を辿りながらこんな稜線を北に進む。
時には榛名特有の笹原を歩くが何とも爽快で気分が良い。
1246m峰が見えてきた。何ともゴツイ山容だ。
上り口はこんな岩場、だが単なる乗り越しだけなので爺イはこんな所は敬遠して
山塊の西側を通る迂回道に入る。
長い迂回道の出口に近くで名物の「さるかけ橋」。樹葉の薄い時期には全体が
良く確認できる。
猿橋とは「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼。猿王の藤蔓をよじ、
断崖を渡るを見て橋を造る」という伝説があるように橋脚を使わない橋を云う
場合が多い。
又、サルの集団が深い沢を渡るときに仲間同士が手足を繋いで橋の代わりを作って
仲間を通過させると云われる事にも拠るらしい。
ここからこの稜線に復帰するのだがそれでは唯の藪ルートを下るだけで面白くないので
そのまま直進。
脇道はこんな斜面を延びて行き偶には林の中も通過するが何しろ踏み跡が薄い。
何となく稜線に接近したらそのまま合流してしまった。未だ下りきりまで100mも
あるのに。
仕方なく稜線をもう一回急降。
降り切ると延々と平坦道が続くが絶え間なく目印があるので安心。
幾つかのアップダウンを経て最後のピーク(11.50)。
ここで梓山の巨体が現れた。
この山は国土院の地形図には1144mとしか表示されないが特別の地形図には
はっきりと山名が書かれている。
直下から水平距離90mで等高線6本だから爺イにとっては崖に近く感ずる。傾斜は
この位。右に回って北東の植林尾根を使えばやや楽なんだが未だ幾らか意地もある。
上部に行くと更に傾斜は増す。直登ではアキレス腱や脹脛が突っ張ってしまうので
広い斜面を適当にジグザグ登り。
何とか頂上台地の東端に到着。ここはかってMHCさんが東村の奥田川沿いの林道から
登って来たルートだと思う(12.16)。目印のテープが三つも付いていた。
一休みして台地を西に進むと直ぐに伝説の神話の岩に出会う。何故神話かと言うと
上野国郡村誌・奥田村の項に梓山に関して「吾妻山、梓山トモ云。――山頂ニ
直立ノ大石三箇アリ、コノ中央ノ石ヲ日本武尊石ト云、東方ノ石ヲ妻石、西方
ノ石ヲ武彦石ト云」と書かれているからである。「武彦」とは日本武尊の東征に
随行した「吉備武彦」、「妻石」の「妻」とは日本武尊の吾妻滞留に際して土地の
長者が差し出した「上妻姫」の事。日本の歴史は第15代応神天皇からと言うのが
定説であるので、第12代景行天皇の第2皇子の日本武尊の事は神話の扱い。
勿論、大和朝廷関連の複数の誰かがそれに近い東征の実績を残したのではあろうが。
何時の頃かは不明だが誰かがここの岩の配列を見て日本武尊伝説と結びつけたもの
であろう。
最初に見るのは「妻石」、何故かこの岩が一番格好が良い。
この岩の頂点には石宮があるので銘などを近くで見たいのだが這い登るのは不能。
間隔を置いて「日本武尊岩」、やや斜面に下がった位置。
最後は「吉備武彦岩」。
そこから100m程で台地の西端。標識が二枚あるが爺イの古物は既に土に
帰っている(12.24)。
現存のものは何れも無銘なので作者は不明。
この台地の北西側には下り尾根が見える。こちらは泉沢川沿いの泉川林道を
使うルートで到達できるが凄い断崖の連続でとてもハイク道とは云えない。
陽だまりで昼食、周囲は雑木が多くて展望は良くない。人の気配も全く無く
静寂の時間。
十分休んでから細長い台地から下山スタート(12.38)。
神話の岩を通過して往路で確認しておいた下山口から軽アイゼンを装着して
急降開始。
下り切ってから梓山を振り返ると見事な山塊だ(13.04)。
帰りは往路の反対に登り一方なので潰れない様にゆっくりと歩く。
樹幹に傷跡、熊のマーキングにしては筋の本数が少な過ぎるな。
こんな小コブや小ピークが連続して現れてダラダラ登りに飽きが来るーーなどとの
呑気な話ではなく足が重くなってきたのに上空からパラパラと小雨で焦り気味。
この大岩の所で左稜線へ。
やがて1246m峰に続く前哨の登り口、この登りはもう真っ平御免を蒙りたい。
右に逃げるはっきりした脇道に入る(13.56)。
一つ目の尾根を跨ぐ。
杭もあるので安心していたら
二つ目の尾根跨ぎの先で道を見失ったので安全のために左の稜線に近づく。
この目印と大岩の所に達して何とか往路の迂回路に復帰。
さる橋の通過が14.15、1246m峰の西側の迂回路を延々と歩く。本来なら途中で
稜線に戻った方が判りやすいのだが面倒なのでこの笹原を横断してショートカット。
綺麗な稜線歩き、と言うより平坦道が続くので気が楽になる。
目の前に烏帽子ケ岳の北側。何ともイメージが合わない姿。
やがて鞍部を目指して藪ルートの登りに入る。
道ははっきりしないが目標の鞍部が見えるので適当に歩く。
で、鞍部着(14.44)。本日の爺イ。相変わらず人の気配無し。
後は下山道を一気に降りて加護丸通過で喧騒の世界に戻る。
榛名湖北岸一帯に植えられたスイセン、考えてみたら植えられていたのは
多分、東吾妻の領域だけ。
15.00丁度に駐車場所に帰着して広島戦終盤に間に合うように飛ばしで帰宅。13100歩。
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約4kの林道歩きと窪への落ち込みが災いして撤退しているので。
榛名湖畔を北岸に回って「ゆうすげ」近辺に駐車。未だ若葉の芽吹きも少なく
景観は冬景色の儘だが連休時期とあって時間は早いのに観光客は多い感じ。
目の前の烏帽子ケ岳の姿を見上げながら出発。天気は大丈夫らしい(9.45)。
湖畔周回道路を彩る満開のスイセンの先に赤鳥居が見える。そこが登山口。
四基の鳥居のうち、二基が倒壊したままになっているが掲額は「加護丸稲荷」。
加護丸の意味は相変わらず判らないが烏帽子への笹道や頂上直下の岩場にも
同じ鳥居があるのでどなたかの記事にあった「山全体が稲荷信仰の御神体」と
云うのが正しい捉えかたの様だ。
鳥居の奥に稲荷信仰定番の陶器の白狐が多数収められている。ハイクの無事を
祈って爺イも殊勝に頭を下げる。
右折して暫くでこの道標を見て山手の登山道に入る。道標の表示は
何故か「烏帽子山」。
登山道は軽い登りで水路の溝の脇にしっかりと歩き易く固められている。
周辺は未だ冬景色で花は少なく、本日見たのは湖畔のスイセンを除くとこれだけ。
やがて鬢櫛と烏帽子の鞍部に到着(10.09)。ここから第一ポイントの1246m峰まで
直線距離で600m程。
直ぐ脇に昔からある鬢櫛への案内道標。かなり古い筈かだが造りが良いのか、素材が
良いのか? 老朽の気配は全く無く我が身に比べて羨ましい限り。
右(東)にはやや険しい烏帽子ケ岳。
左(西)はおとなしい鬢櫛山の姿。
一呼吸置いていよいよ梓山へ出発。ここからは時々は登りもあるが全体的には
東吾妻町の旧東村に向かって下りであるので往路は楽だが帰路には苦労する。
乗り越し地点からの踏み跡は全く消えていて唯の笹原となっていた。多分、こんな
所を歩く人は稀なんだろうな。これでは笹が勢いを増す夏場には益々
判らなくなるだろう。
少し下ると道形が出てくるが荒地同然なので初めて来れば足が止まるかも。
目印の大岩の脇を通過。
前方に見えてきたあの稜線が烏帽子ケ岳から北に伸びる稜線で今日のルート。
この目印テープの所で稜線に合流、このルートにはやや古いが赤とオレンジの目印が
絶えることなく梓山まで続いている。
数多い目印を辿りながらこんな稜線を北に進む。
時には榛名特有の笹原を歩くが何とも爽快で気分が良い。
1246m峰が見えてきた。何ともゴツイ山容だ。
上り口はこんな岩場、だが単なる乗り越しだけなので爺イはこんな所は敬遠して
山塊の西側を通る迂回道に入る。
長い迂回道の出口に近くで名物の「さるかけ橋」。樹葉の薄い時期には全体が
良く確認できる。
猿橋とは「昔、推古帝の頃(600年頃)百済の人、志羅呼。猿王の藤蔓をよじ、
断崖を渡るを見て橋を造る」という伝説があるように橋脚を使わない橋を云う
場合が多い。
又、サルの集団が深い沢を渡るときに仲間同士が手足を繋いで橋の代わりを作って
仲間を通過させると云われる事にも拠るらしい。
ここからこの稜線に復帰するのだがそれでは唯の藪ルートを下るだけで面白くないので
そのまま直進。
脇道はこんな斜面を延びて行き偶には林の中も通過するが何しろ踏み跡が薄い。
何となく稜線に接近したらそのまま合流してしまった。未だ下りきりまで100mも
あるのに。
仕方なく稜線をもう一回急降。
降り切ると延々と平坦道が続くが絶え間なく目印があるので安心。
幾つかのアップダウンを経て最後のピーク(11.50)。
ここで梓山の巨体が現れた。
この山は国土院の地形図には1144mとしか表示されないが特別の地形図には
はっきりと山名が書かれている。
直下から水平距離90mで等高線6本だから爺イにとっては崖に近く感ずる。傾斜は
この位。右に回って北東の植林尾根を使えばやや楽なんだが未だ幾らか意地もある。
上部に行くと更に傾斜は増す。直登ではアキレス腱や脹脛が突っ張ってしまうので
広い斜面を適当にジグザグ登り。
何とか頂上台地の東端に到着。ここはかってMHCさんが東村の奥田川沿いの林道から
登って来たルートだと思う(12.16)。目印のテープが三つも付いていた。
一休みして台地を西に進むと直ぐに伝説の神話の岩に出会う。何故神話かと言うと
上野国郡村誌・奥田村の項に梓山に関して「吾妻山、梓山トモ云。――山頂ニ
直立ノ大石三箇アリ、コノ中央ノ石ヲ日本武尊石ト云、東方ノ石ヲ妻石、西方
ノ石ヲ武彦石ト云」と書かれているからである。「武彦」とは日本武尊の東征に
随行した「吉備武彦」、「妻石」の「妻」とは日本武尊の吾妻滞留に際して土地の
長者が差し出した「上妻姫」の事。日本の歴史は第15代応神天皇からと言うのが
定説であるので、第12代景行天皇の第2皇子の日本武尊の事は神話の扱い。
勿論、大和朝廷関連の複数の誰かがそれに近い東征の実績を残したのではあろうが。
何時の頃かは不明だが誰かがここの岩の配列を見て日本武尊伝説と結びつけたもの
であろう。
最初に見るのは「妻石」、何故かこの岩が一番格好が良い。
この岩の頂点には石宮があるので銘などを近くで見たいのだが這い登るのは不能。
間隔を置いて「日本武尊岩」、やや斜面に下がった位置。
最後は「吉備武彦岩」。
そこから100m程で台地の西端。標識が二枚あるが爺イの古物は既に土に
帰っている(12.24)。
現存のものは何れも無銘なので作者は不明。
この台地の北西側には下り尾根が見える。こちらは泉沢川沿いの泉川林道を
使うルートで到達できるが凄い断崖の連続でとてもハイク道とは云えない。
陽だまりで昼食、周囲は雑木が多くて展望は良くない。人の気配も全く無く
静寂の時間。
十分休んでから細長い台地から下山スタート(12.38)。
神話の岩を通過して往路で確認しておいた下山口から軽アイゼンを装着して
急降開始。
下り切ってから梓山を振り返ると見事な山塊だ(13.04)。
帰りは往路の反対に登り一方なので潰れない様にゆっくりと歩く。
樹幹に傷跡、熊のマーキングにしては筋の本数が少な過ぎるな。
こんな小コブや小ピークが連続して現れてダラダラ登りに飽きが来るーーなどとの
呑気な話ではなく足が重くなってきたのに上空からパラパラと小雨で焦り気味。
この大岩の所で左稜線へ。
やがて1246m峰に続く前哨の登り口、この登りはもう真っ平御免を蒙りたい。
右に逃げるはっきりした脇道に入る(13.56)。
一つ目の尾根を跨ぐ。
杭もあるので安心していたら
二つ目の尾根跨ぎの先で道を見失ったので安全のために左の稜線に近づく。
この目印と大岩の所に達して何とか往路の迂回路に復帰。
さる橋の通過が14.15、1246m峰の西側の迂回路を延々と歩く。本来なら途中で
稜線に戻った方が判りやすいのだが面倒なのでこの笹原を横断してショートカット。
綺麗な稜線歩き、と言うより平坦道が続くので気が楽になる。
目の前に烏帽子ケ岳の北側。何ともイメージが合わない姿。
やがて鞍部を目指して藪ルートの登りに入る。
道ははっきりしないが目標の鞍部が見えるので適当に歩く。
で、鞍部着(14.44)。本日の爺イ。相変わらず人の気配無し。
後は下山道を一気に降りて加護丸通過で喧騒の世界に戻る。
榛名湖北岸一帯に植えられたスイセン、考えてみたら植えられていたのは
多分、東吾妻の領域だけ。
15.00丁度に駐車場所に帰着して広島戦終盤に間に合うように飛ばしで帰宅。13100歩。
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梓山はかって後藤信雄さんが「山の本66巻」に寄稿して
いるので北からのルートが使われているらしいのですが
林道歩きが長いので南ルートの方が面白いと思います。
烏帽子岩には基部にタッチしただけで行ったことに
しましたがあにねこさんなら岩上まで楽勝でしょう。
後藤さんも県内あちこち登って、まあすごい人ですね。
爺イ先生は烏帽子岩も昨年4月に基部まで行かれているのですね。
こちらのコースも参考にさせて頂きます。