クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

安中の古城址探訪(2) H-21-1-25

2009-01-26 06:44:24 | 伝説・史跡探訪
そして瓶尻の戦いから二年後の永禄二年(1559)、信玄は大軍を
率いて二度目の西上州への侵攻。だが、業政に翻弄されて不成功、
遂に「あの爺が生きている限り落城は無理」とぼやくばかり。
そこで中央突破は諦めて業政の手足となる諸将の城を弱そうな
所から順次に攻略し最後に本拠を衝く方針に転換。

そうしている内に永禄四年、業政が亡くなる。遺言として
「-仏事を修するなかれ。子も敵に降るなかれーー」として
残したが其の死は忽ち信玄の知るところとなり、永禄六年
総攻撃が始まる。松井田城は安中忠政、安中城は安中忠成の布陣。
この時、信玄が拠点したのが前記の「八幡平」とも。

甘利昌忠(小諸城主)・小幡信定に攻められた忠成は一応は
応戦するものの降伏し本領安堵の道を選択し昌忠の妹婿となって
名も景繁と改めて武田に忠誠を誓って安中氏の存続を為した。
一方、松井田城の父親・忠政は徹底交戦の後、家臣の命乞いを
して降伏、切腹して果てた。
だが、鷹留城攻防戦と同じくこの城でも裏切り者が出て
武田軍を城内に引き入れたとする伝説がある。其の名は
元武田家臣の平尾次助、顔見知りの寄せ手の将を頼って
裏切りと交換に武田への帰参を図ったとか。
その後、天正三年(1575)に忠成の安中軍は武田側として長篠に
出陣、設楽ヶ原で一兵も残らず玉砕、地元の将士も帰農したり
後に北条に属したりして安中城は廃城。
一方、武田の持城となつた松井田城もその後の天正十年(1582)に
勝頼が滅亡、一時期だけ織田軍の一益配下が進駐するも本能寺の
変で撤退、北条が乗り込んで城主は猛将・大道寺政繁。

この松井田城は旧高梨子村城山で大道寺曲輪の通称で
本丸・二の丸の一城別郭、安中曲輪も同様の一城別郭で
夫々独立して戦闘が出来る別単位である。
だが天正十八年の秀吉の小田原攻めで北陸・越後から参陣する上杉・
前田の大軍に立ち向かったが敗退して降伏、大道寺は小田原
陥落後に自刃させられ松井田城も以後廃城。
補陀寺に墓所と聞いたので補陀寺を訪問。18号線で松井田城址
看板を過ぎると右に寺の看板、但し此処を右折したら山の中に
入って大変。
看板と反対に左折して下の道に出ると直ぐ。ここは大道寺氏の
居館跡でもあるし彼の補強した広大な松井田城の一角を占める
「補陀寺曲輪」と云われる所。



寺の人が不在で墓所が判らないし、それに関する一切の
表示が無いので仕方なく裏山に登って見たらトンガリ山の
頂上は台地で摩利支天の石碑等があり大岩ゴロゴロで
確かに居館の跡の雰囲気十分。遥か下には18号線、つまり
バイパス建設で遺構が破壊され現在では北の松井田城の
範囲と分断されてしまっているのだ。雰囲気から勝手に
居館跡と決め付け。




さて、今度は「松井田西城」探しに掛かる。18号線に戻って
僅かの距離で金剛寺



開基が碓井貞光だというのが売り物で蛇退治に因んで
こんな物。残念ながら西城の謂れを表示するものは皆無。



寺の右手から裏山に挑むが中腹の墓地で道は無くなり断念。
尤もこの寺自体、数度の火災に会い廃城になってから
ここに建てられたのだから仕方ないか?
こんな形だったとの事。



隣の諏訪神社へ登れば遺構位見られるかも知れないが
例によって素人には見分けはつかないと思つて断念。



今度は「安中郭」探し。18号線を数百m戻って城址看板の
手前の坂の頂点に北に入る小道。一寸入るとこんな道標。



安中郭の位置は大道寺郭より東なのに入り口は逆に西なので
一寸戸惑うが、東の本城入り口からは約1kも北西にくねくねと
曲がって漸く大手口、そこから南にさがつて来るので本丸は
安中郭より西になるのだ。尤も完全な東西ではなく北西と南東。
ここは最初から完全な登山道、丁度良いリハビリ。稜線に上り
詰めて直進は「水の手」、そこを切り返しで左折すると
安中郭への道標。



安中郭に到着すると大道寺氏の記念碑。




あれあれっ 安中郭は安中忠政なのに、とも思ったが
政繁は此処を含めて広範囲で再構築したのだから良いのかな?

城の形はこんなだった。



一休みして分岐から「水の手」を経て山伝いに本城へと
思ったが、一旦車に戻りいよいよ最後の松井田城大道寺郭へ。
と言っても大道寺郭とは仮称だからそんな表現は何処にも
見当たらない。
18号線にある大きな松井田城址入り口看板から1k程の
蛇行道で大手口。入り口に城址案内板。
途中まで車乗り入れ可能な舗装路、舗装切れに駐車場。
ここからは綺麗なハイキングコースで途中の案内表示を
辿って本丸着、記念碑ぐらいある筈との期待は外れて
表示はこれだけで聊か物足りない。



近くに虚空蔵堂。山崎一氏の解説では此処を虚空蔵山と
呼び「二の丸」とし地元表示の「二の丸」を「本丸」と
しているので困ったものだ。



二の丸にも行って見たがあっさりしたもの



城の形



さて、再び安中城の話。
設楽ヶ原での玉砕の後、耕作地に変貌していた安中城址は
慶長十九年(1614)になつて38年振りに復活する。家康による
豊臣いびりが最高潮の頃だ。箕輪から高崎に移っていた井伊直政の
病弱の長男・直勝が三万石で安中藩を立藩したのだ。以後、藩主は
変転するが幕末まで藩は持ちこたえた。
但し、江戸時代の安中城とは軍事的な城砦ではなくて行政的な
陣屋の類。従って現在遺跡と称しているのは戦国と江戸時代の
二つの混在。文化センターや安中小の辺りが本丸に相当。
井伊が二代続いた後は水野時代が三代。この二代目の元知が
例の「八重事件」の張本人として名を残す。
さて、六代目は堀田正俊、春日の局の養子として著名人。
極めて有能で若年寄から館林の綱吉の将軍への擁立に
多大の貢献をし大老に上り詰め、元和元年古河に転封。
後に刺殺される。
七代・八代は板倉氏、京都所司代を務めた徳川の名家。
原市杉並木は板倉初代の重形の実績
九代・十代・十一代は内藤氏。特記事項もなく平凡。
十二代から幕末まで板倉氏六代の再度の登場。
板倉五代目の勝明は名君、貴賎の別なく文武を奨励し、一朝有事に
備えて藩士の鍛錬を怠らず安政二年に碓氷峠までの遠足を
実施した。
その記念碑は現在の安中文化センターの駐車場の南端にある。
先ず、「安中藩安中遠足之碑」



それに加えて「日本マラソン発祥の地・安中」の碑と念入り。



最後の藩主・勝股は和宮下向、農兵制度の採用、小栗追討、
偽官軍事件、世直し騒動、会津兵との交戦など幕末の激変を
乗り切り明治二年に藩知事、廃藩置県後は子爵。
で、今日のリハビリは終了、心肺能力は発病前より更に
強くなっているが困ったのは脚力、僅かの登りなのに
張りが残っている。8日間の寝たきりは相当後を引くかも。

参考文献
「松井田誌」「安中市史」「上州の城・上毛新聞」「群馬の古城・山崎一」

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