
今日も天気が思わしくない。と言いながら本音では低山の暑さを避けた
いのだろう。
史跡巡りのケリを付けるべく、地図・メモ・カメラ・ポカリだけ持参、
短パン・サンダル履きのだらしなさで出かける。
(1)九蔵町の命名
これは伝説でなくて史実。今日の目的は寺尾・山名・倉賀野だが、市街地
通過の折、赤信号で止まった隙に九蔵町標識をキャッチ。

1615年の大阪夏の陣の際、徳川方の高崎城主・酒井家次は四人の町人
を従軍させている。北爪・梶山・須藤・反町の「高崎城下四人衆」。
この内、北爪は攻防の乱戦の中、矢倉に入りこみ持参していた酒井家の
旗印を窓から翻した。これを見た寄せ手は家次一番乗りとして奮い立ち、
落城を早める切っ掛けとなる。戦後、家次は北爪の要望によって住んで
いた町を与え、諸役別徐の扱いとした。北爪、名は「九蔵」、これが今の
九蔵町の始まり。
(2)寺尾・永福寺
城南大橋から旧道を行って寺尾三叉路手前から急坂を登って永福寺、
この辺も寺尾中城の一角かもしれない。ここには新田氏の祖と言われる
「新田義重」の墓がある筈。墓地は山の斜面を使った広大な敷地。

その一番上に「歴住の搭」が並ぶがその左手にひっそりと石の板碑。どうも
墓ではないようだ。表示がなければ唯の無縁仏の様。表示には「新田義重
入道上西大禅定門の墓」とあるが。

義重は義家の孫、頼朝の挙兵には日和見の姿勢を示して頼朝の不興を
買ったが、長男の山名義範は鎌倉に馳せ参じているし、次男・里見義俊
の長男は後に頼朝のご家人になっている。日和見は義重が遥か年下の
頼朝を格下に見下した事と、義重の娘で「義平未亡人」を頼朝の側室に
要求された事等と説話は伝えている。義重に付いては下記URL。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/00e820bf98cebce03a909ac7b9ef20f5
(3)山名町・山名八幡の太刀割り石
永福寺の坂を下って今度は根小屋を通過して右側の大鳥居を潜って
山名八幡へ。

その入り口に「太刀割り石」があり、「樋口定次先生太刀割石」の看板。

1600年の頃、馬庭念流の中興の祖と言われる樋口又七郎定次は高崎の
天道流・村上天流と烏川河原で果し合いをする羽目になった。
定次は山名八幡に神助を祈って参篭し21日の満願の日に枇杷の木刀で
岩を打ったら真っ二つに割れたと言う伝説。この八幡は新田義重の
長男(三男説あり)・山名義範(山名氏祖)が宇佐八幡を勧請した
とされる。南北朝時代、新田一族は義貞に従ったが、山名氏は足利尊氏に
従って山陰の守護大名になり赤松・京極・一色と共に四職家の一つ。
応仁の乱で日野富子と組んで西軍の大将を務め、細川勝元と争った
「山名宗全」は11代目の末裔で山名に居たわけではない。
(4)山名町・たばこの光台寺
山名八幡を出て少し先の「山名町信号」を左折して倉賀野に向うと
僅かの距離の右手に「光台寺」。

一寸寂しい寺であるが、その昔、有名な寺尾・舘のタバコの種をこの寺で
栽培したら優秀な葉を採る事ができ、将軍家愛用までになったと言う。
今は何の表示も見当らない。その代わりに享保七年銘の「三猿」の石像物とか

「線刻地蔵菩薩像」を発見。この菩薩は1437年のもの、殆ど摩滅して
良く見ないと分からず、当然写真には上手く写らないが、円光の光背を
背負った僧形で、当時は南北朝以来の戦乱が続き、永亨の乱・結城合戦
があり、戦場の危機を免れ様と祈願したものらしい。

(5)倉賀野・下町の閻魔堂
倉賀野方面に向い、新幹線を潜り、共栄橋で烏川を渡って121号線の
中町信号を右折、下町信号の133号線との二股に閻魔堂があり
常夜灯もある。


ここは「右・江戸道、左・日光道」という古道標が残っている様に
「日光例幣使街道」の始点でもある。常夜灯の基部にも同じ道標。

日光例幣使街道は1647年から1867年まで使われた。常夜灯には
「文化十一年」とあるので1814年のもの。基部には雷電為右衛門など
の当時の大相撲の力士名が寄進者の中に見える。
(6)倉賀野・養報寺の根なし松
今度は西に少し戻って高崎線沿いの小道を辿って養報寺へ。この辺は
細道が入り込み捜し出すのに大苦戦。

境内に入ると先ず、高崎市重文の「鬼城句碑」、「小鳥この頃音も
させずに来て居りぬ」であり、大正十三年建立の鬼城句碑第一号との事。

境内左に「五体石仏」、鎌倉初期の物らしいが小屋状の中にあるので写真は
良く撮れない。

もう一つの名物は樹齢三百年以上と言われる「根なし松」であるが、
残念ながら既に枯死してしまい現在は2代目がこじんまりと生えている。
当然「根なし松」の表示なし。

(7)倉賀野・井戸八幡
今度は上町から烏川に向って南進して井戸八幡。1646年頃、倉賀野城址
三の丸辺の畑の中の井戸から御神体が出たという。この年、地鳴り震動し
三の丸跡に井泉が出現、霊泉みなぎり光を放つ中から田口某という者が
御神体を得たという。田口家は代々神職として井戸八幡を守っている。
今日が祭りとの事で氏子さん達が既に準備中。

(8)倉賀野河岸跡
井戸八幡から下って川淵に出るが住宅がびっしり。その間に倉賀野河岸の
看板が寂しく一つ。

この河岸は1561年頃、地元民10名ほどが船による回船業を開始した
のが始まりで1648年には76業者という盛況振りであったが1884年
に上野・高崎間の鉄道開設で徐々に廃れたとの事。
この辺も倉賀野城の範囲だったらしい。
(9)倉賀野神社
直ぐ近くの中学脇の倉賀野神社に向う。

ここで見たかった地元の数学家・鈴木勝森が奉献した和算額は老朽して
社務所に写真があるだけ。それも何も読み取れなくなってからの写真で
保全の不備に残念至極。この神社は神宝亀形の自然石を御霊代としていて、
雨乞いの時も祈るので「雨乞い石」といわれているが当然見る事はできない。
勿論、社宝の千年以上前の「翁面」も同様。毎月一日には社殿に入れる
そうなので、その時はどうなのだろう。
(10)倉賀野城址
再び、狭苦しい住宅地を縫って烏川沿いの道に戻って城址を探す。川辺の
小公園に城址の石碑を発見。住宅地に囲まれた奇妙な構図に思わず苦笑い。

この城は戦国時代のひら城で江戸期の物とは造りがまるで違うし規模も
さしたる物ではない。ここで初めて倉賀野氏を名乗ったのは源平の頃の
児玉党・秩父三郎高俊といわれるが、箕輪城落城の前年、永禄8年
1565年に武田信玄に攻められ落城、その後幾多の変遷で武田滅亡後の
1590年に当時の城主・金井影秀は小田原に篭城して討ち死、四百年以上
の歴史に幕を閉じる。
(11)円墳を背に安楽寺
ここからやや北の安楽寺に向う。

円墳の中にあるという「七仏薬師」を見る積りだったが
円墳入り口は寺屋に繋がっていて入れず、残念ながら石碑のみで我慢。

西側にニ体の異形板碑があつた。年代不祥とはいえ南北朝のものらしく
天引石に梵字で阿弥陀三尊、天蓋と花瓶つき。

その他、二十ニ夜堂とか

将軍地蔵堂もある。

以上で探訪は目出度く終了。
探訪先は田島武夫著・高崎の名所と伝説(S-48発刊)より選択。
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いのだろう。
史跡巡りのケリを付けるべく、地図・メモ・カメラ・ポカリだけ持参、
短パン・サンダル履きのだらしなさで出かける。
(1)九蔵町の命名
これは伝説でなくて史実。今日の目的は寺尾・山名・倉賀野だが、市街地
通過の折、赤信号で止まった隙に九蔵町標識をキャッチ。

1615年の大阪夏の陣の際、徳川方の高崎城主・酒井家次は四人の町人
を従軍させている。北爪・梶山・須藤・反町の「高崎城下四人衆」。
この内、北爪は攻防の乱戦の中、矢倉に入りこみ持参していた酒井家の
旗印を窓から翻した。これを見た寄せ手は家次一番乗りとして奮い立ち、
落城を早める切っ掛けとなる。戦後、家次は北爪の要望によって住んで
いた町を与え、諸役別徐の扱いとした。北爪、名は「九蔵」、これが今の
九蔵町の始まり。
(2)寺尾・永福寺
城南大橋から旧道を行って寺尾三叉路手前から急坂を登って永福寺、
この辺も寺尾中城の一角かもしれない。ここには新田氏の祖と言われる
「新田義重」の墓がある筈。墓地は山の斜面を使った広大な敷地。

その一番上に「歴住の搭」が並ぶがその左手にひっそりと石の板碑。どうも
墓ではないようだ。表示がなければ唯の無縁仏の様。表示には「新田義重
入道上西大禅定門の墓」とあるが。

義重は義家の孫、頼朝の挙兵には日和見の姿勢を示して頼朝の不興を
買ったが、長男の山名義範は鎌倉に馳せ参じているし、次男・里見義俊
の長男は後に頼朝のご家人になっている。日和見は義重が遥か年下の
頼朝を格下に見下した事と、義重の娘で「義平未亡人」を頼朝の側室に
要求された事等と説話は伝えている。義重に付いては下記URL。
http://blog.goo.ne.jp/gooyamachuu/e/00e820bf98cebce03a909ac7b9ef20f5
(3)山名町・山名八幡の太刀割り石
永福寺の坂を下って今度は根小屋を通過して右側の大鳥居を潜って
山名八幡へ。

その入り口に「太刀割り石」があり、「樋口定次先生太刀割石」の看板。

1600年の頃、馬庭念流の中興の祖と言われる樋口又七郎定次は高崎の
天道流・村上天流と烏川河原で果し合いをする羽目になった。
定次は山名八幡に神助を祈って参篭し21日の満願の日に枇杷の木刀で
岩を打ったら真っ二つに割れたと言う伝説。この八幡は新田義重の
長男(三男説あり)・山名義範(山名氏祖)が宇佐八幡を勧請した
とされる。南北朝時代、新田一族は義貞に従ったが、山名氏は足利尊氏に
従って山陰の守護大名になり赤松・京極・一色と共に四職家の一つ。
応仁の乱で日野富子と組んで西軍の大将を務め、細川勝元と争った
「山名宗全」は11代目の末裔で山名に居たわけではない。
(4)山名町・たばこの光台寺
山名八幡を出て少し先の「山名町信号」を左折して倉賀野に向うと
僅かの距離の右手に「光台寺」。

一寸寂しい寺であるが、その昔、有名な寺尾・舘のタバコの種をこの寺で
栽培したら優秀な葉を採る事ができ、将軍家愛用までになったと言う。
今は何の表示も見当らない。その代わりに享保七年銘の「三猿」の石像物とか

「線刻地蔵菩薩像」を発見。この菩薩は1437年のもの、殆ど摩滅して
良く見ないと分からず、当然写真には上手く写らないが、円光の光背を
背負った僧形で、当時は南北朝以来の戦乱が続き、永亨の乱・結城合戦
があり、戦場の危機を免れ様と祈願したものらしい。

(5)倉賀野・下町の閻魔堂
倉賀野方面に向い、新幹線を潜り、共栄橋で烏川を渡って121号線の
中町信号を右折、下町信号の133号線との二股に閻魔堂があり
常夜灯もある。


ここは「右・江戸道、左・日光道」という古道標が残っている様に
「日光例幣使街道」の始点でもある。常夜灯の基部にも同じ道標。

日光例幣使街道は1647年から1867年まで使われた。常夜灯には
「文化十一年」とあるので1814年のもの。基部には雷電為右衛門など
の当時の大相撲の力士名が寄進者の中に見える。
(6)倉賀野・養報寺の根なし松
今度は西に少し戻って高崎線沿いの小道を辿って養報寺へ。この辺は
細道が入り込み捜し出すのに大苦戦。

境内に入ると先ず、高崎市重文の「鬼城句碑」、「小鳥この頃音も
させずに来て居りぬ」であり、大正十三年建立の鬼城句碑第一号との事。

境内左に「五体石仏」、鎌倉初期の物らしいが小屋状の中にあるので写真は
良く撮れない。

もう一つの名物は樹齢三百年以上と言われる「根なし松」であるが、
残念ながら既に枯死してしまい現在は2代目がこじんまりと生えている。
当然「根なし松」の表示なし。

(7)倉賀野・井戸八幡
今度は上町から烏川に向って南進して井戸八幡。1646年頃、倉賀野城址
三の丸辺の畑の中の井戸から御神体が出たという。この年、地鳴り震動し
三の丸跡に井泉が出現、霊泉みなぎり光を放つ中から田口某という者が
御神体を得たという。田口家は代々神職として井戸八幡を守っている。
今日が祭りとの事で氏子さん達が既に準備中。

(8)倉賀野河岸跡
井戸八幡から下って川淵に出るが住宅がびっしり。その間に倉賀野河岸の
看板が寂しく一つ。

この河岸は1561年頃、地元民10名ほどが船による回船業を開始した
のが始まりで1648年には76業者という盛況振りであったが1884年
に上野・高崎間の鉄道開設で徐々に廃れたとの事。
この辺も倉賀野城の範囲だったらしい。
(9)倉賀野神社
直ぐ近くの中学脇の倉賀野神社に向う。

ここで見たかった地元の数学家・鈴木勝森が奉献した和算額は老朽して
社務所に写真があるだけ。それも何も読み取れなくなってからの写真で
保全の不備に残念至極。この神社は神宝亀形の自然石を御霊代としていて、
雨乞いの時も祈るので「雨乞い石」といわれているが当然見る事はできない。
勿論、社宝の千年以上前の「翁面」も同様。毎月一日には社殿に入れる
そうなので、その時はどうなのだろう。
(10)倉賀野城址
再び、狭苦しい住宅地を縫って烏川沿いの道に戻って城址を探す。川辺の
小公園に城址の石碑を発見。住宅地に囲まれた奇妙な構図に思わず苦笑い。

この城は戦国時代のひら城で江戸期の物とは造りがまるで違うし規模も
さしたる物ではない。ここで初めて倉賀野氏を名乗ったのは源平の頃の
児玉党・秩父三郎高俊といわれるが、箕輪城落城の前年、永禄8年
1565年に武田信玄に攻められ落城、その後幾多の変遷で武田滅亡後の
1590年に当時の城主・金井影秀は小田原に篭城して討ち死、四百年以上
の歴史に幕を閉じる。
(11)円墳を背に安楽寺
ここからやや北の安楽寺に向う。

円墳の中にあるという「七仏薬師」を見る積りだったが
円墳入り口は寺屋に繋がっていて入れず、残念ながら石碑のみで我慢。

西側にニ体の異形板碑があつた。年代不祥とはいえ南北朝のものらしく
天引石に梵字で阿弥陀三尊、天蓋と花瓶つき。

その他、二十ニ夜堂とか

将軍地蔵堂もある。

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