クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

暇つぶし 鐘原ケ岳のつれづれ H-25-5-13

2013-05-13 17:31:32 | 榛名山麓
掲題の写真は天目山南鞍部から見た1271m峰

昨日(5/12)は久し振りに安政遠足の仮装写真を撮りに出かけ様としていたが
生憎の事に午前中に所用が出来て断念。このマラソンはam.800のスタートなので
20kの坂本宿コースは10時間を過ぎれば面白い見所が無くなってしまうのだ。

で、午後からの横浜戦をチラチラ見ながら以前から気になっていて頭の整理が
付いていない鐘原ケ岳のことを色々と見直してみた。
現在の国土院地形図で高崎・榛名山町の辺りを見ると、山頂に多くの頂上標識が
あるにも関わらず地形図に山名が記されていない所がある。
記載があるのは覗岩・地蔵峠・天狗山・鏡台山だけ。
氷室山と天目山の南にある「1271m」峰、地蔵峠の東南にある三つの突起、1252m峰
1234m峰そして三角点のある1224.9m峰がそれである。

かって国土院に質問したことがある。「これだけ標識が付けられていて山名が定着と
思われるのに何故に地形図に山名が載らない?」と。
返事は「山名記載に関しては地元関係者(多分地元行政機関)の意向を汲み取らないと
表示できない」
それではと旧榛名町時代に榛名町町史編纂室に問い合わせたら「余りに諸説があって
町としては決めかねているが何れ結論を出す予定」の回答。
だが、そうこうしている内に榛名町は高崎市と合併し編纂室も町史の新版が出来たら
いつの間にか解散になってしまって消滅ーーそこで、この話は途切れてそのまま。

先ず、原点となる大正14年刊の「群馬県群馬郡誌」には下記の記載がある。
(1)地蔵峠ー地蔵峠は直越峠とも云う。標高1093米、大小鐘原ケ岳の中間にして
社家町より18町あり。古昔は箕輪街道の本線なりしが如し。峰に地蔵尊石像あり。
(2)鐘原(カナハラ)ケ岳ー
氷室嶽に連なりて大小ニ峰をなす。その峰間は即ち地蔵峠なり。
伝え云う、武田信玄箕輪城攻の時山中に陣営を構え地蔵峠の間道に備えたりと。
大鐘原ケ岳は氷室嶽に連なり山勢東南に延びて車川を濫觴す。小鐘原ケ岳は
大鐘原ケ岳に連なり山勢東南に延く山脈の西南に起こるものは渠門山
(ホリノトヤマ現・天狗山)に続く。

上記の記事から「地蔵峠は大小鐘原ケ岳の中間にして」と「大小ニ峰をなす。その峰間は
即ち地蔵峠なり」の二つに注目する。
すると、地蔵峠の北の1271m峰が大鐘原ケ岳で地蔵峠から東南に連なり天狗山に
達する長い稜線は幾つかの突起を持っているとしても一つの山塊で小鐘原ケ岳となる。
それを証明する古地図を見つけたがそれが下のもの。
1271m峰の所に大鐘原ケ岳、地蔵峠を挟んでの東南の山塊は小鐘原ケ岳となつている。



その昔、確たる山名など存在しない時代、鐘原ケ岳山塊の通称の古名は「旗輻岳」とは
「300山」の記載で「芦田氏が箕輪城攻略の際、ここに旗を立てたと言うのが山名の
起こりーーと記してある。それでその根拠を調べてみた。
榛名神社の鳥居から天狗山方面に僅かに入った所に確かに「芦田小屋」の地名がある。
信玄輩下の芦田幸成がここに箕郷攻めの勝頼軍の兵站を置いたのが地名の起こり
らしい。そして1271m峰が芦田陣営の物見台とのこと。1271m峰から見下ろす
地蔵峠からは長野氏の本拠・箕輪城、天狗山麓からは長野氏の拠点の一つ室田鷹留城に
通じていたからであろう。これは永禄9年(1566年)の箕輪攻めの話。この物見台を置いた
ことで1271m峰は「はたやだけ」とか旗幅岳・旗幟岳・鐘原岳ともいわれたらしい。

芦田幸成は確かに存在した。元は信濃・依田氏の出身であるが信玄配下の中堅として
例の第四次川中島(1561年)の対決のときに妻女山に潜行した侍大将の一人に名が残る。
だが1575年の長篠の戦いの直後、二俣城で亡くなった芦田信守との関係が
判らない。芦田氏は弱小土豪として苦労し1541年に関東管領・上杉憲政が芦田へ
侵攻すると、それと和睦した諏訪頼重に降る。しかし1542年、頼重が武田信玄に
自害させられると、大井氏に帰参した。そして1543年に武田信玄が大井貞隆の居城・
長窪城を攻撃すると、これに内応し長窪落城に貢献、以後は武田氏に仕えた。

そんな経過の中で今の頂上標識が何故付けられたのかは判らないが、少なくも
数年前までの1271m峰には標識は無かった。だが、突然こんな標識が付いた。
この時、爺イは同じ山に「岳」と「山」の併記は如何なものかと書いたことがある。
残念ながらこの標識は皮の厚い大木に短い螺子で取り付けたので翌年には
落下してしまってその後はどうなっているかは判らない。今は近辺の低山を
席巻したN.G氏やすかいさんのものが付いているかも知れないが最近は登っていないので
不明。



現在の1252mや1224.9mが何時から大小の鐘原ケ岳になったんだろう。爺イが推察するに
これが付いているだけの時代は未だ大小の区別は曖昧だったのかも。



何時の頃か覚えていないが近辺の鏡台山や天狗山と同時期に群馬県内6高校の名前で
行政製と間違えるほど立派な標識が建てられてから急速に大と小の鐘原ケ岳の区別が
浸透しだした気がする。





私見で申し訳ないがこの6高校の標識は地名辞典や群馬郡誌を調べることも
地元行政との調整も不十分だったのではないだろうか?
若しも地元で山名に関する意見が集約されていれば国土院に対して表記の
申請が行われて500年近くのモヤモヤはとっくに解消されている筈だがな。

尚、爺のブログで地蔵峠の地蔵尊は明治初期の廃仏棄釈で峠から放り出されたとの
噂があるーーと書いているがどうやらそんな事は無いようで廃仏棄釈のとばっちりで
首は破壊されたかも知れないがあの位置は元々の位置らしい。尤も昔の上州の
博徒たちが地蔵の首を持つとツキが回るとの事で首狩をやつたとの話もあるが。



元々の位置と思ったのは「地蔵尊は地獄に行く人を救うと言う信仰があるから
境神としても通行の安全を祈るためにも峠から見ると地獄の位置とされる
峠下に置かれたんではなかろうか。この辺は地蔵信仰に詳しい人に
聞かないとはっきりしないが放り出されたとの表現は訂正しておこう。

序に余計な一言。この1271m峰の南の突端には見事な巨石尖塔があり
「覗(ノゾキ)岩」として知られているが、榛名湖畔から良く見える掃部ケ岳途中の
硯岩(スズリ)岩との混同がネットの世界では笑いたくなるほど氾濫している。



かって硯岩にはこんな標識があったがこの写真を載せてのぞき岩と説明している
HPも存在する。多分、人の書いた記事をそのまま取り込んでいるからだろう。
確かに硯も覗も漢字検定では準一級の配当漢字だから難しいと言えば
それまでだが。



掃部ケ岳との分岐にはこんなにはっきりと硯岩と表示しているのに。
これを「のぞき」と読んでいるんだろうか?



aninecoさんやトラZさん・山とんぼさんの様にバシッと正確に書いてあるのを見ると
ホッとするが覗岩と検索すると大半が榛名湖畔の硯岩が出るという現象は
高崎市民として誠に情けない。

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2 コメント

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Unknown (あにねこ)
2013-05-14 00:16:15
爺イ先生こんばんは。詳細な山名考察、参考になります。
山と高原地図では、地蔵峠の北に幡矢ヶ岳、南に大・小鐘原ヶ岳が記載されていますね。現地の道標とどっちがどっちを参照しているかわかりませんが、
山と高原地図は影響が大きいと思うので、これが定着しそうですね。
行政がきちんと検討して、地形図に反映されるのが一番なのですが。
返信する
Unknown (爺イ)
2013-05-14 20:16:03
aninecoさん
そうですか 山と高原地図に載っていれば
定着しそうですね!
今日、榛名神社西稜線の縦走を試みましたが
最後のところでナイフブリッジに乗れなくて
敢え無く撤退。これで二連敗。
今度は別ルートで覗岩に再挑戦するので
三連敗の可能性が大。
返信する

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