クタビレ爺イの山日記

諸先達の記録などを後追いして高崎近辺の低山中心に歩いています。

平井城・金山城 蛇足 だそく ダソク H-19-2-27

2007-02-27 18:03:05 | 伝説・史跡探訪
「金井城」は麓城の「平井城」とワンセットの要害城である。平井城が
危機に晒された時には、この金井城に立て篭もるのが目的。
平井城・金井城等が歴史上に記録されたのは1438年の「永亨の乱」
の時というから戦国前期の話だ。
この頃、鎌倉公方の「足利持氏」と補佐役関東管領・上杉憲実は極めて不仲。
憲実は領地・上野国へ難を逃れるがこの事を古書は「上杉を退治せよとの
御諚なり。上杉この由伝え聞き鎌倉に居る事叶わずして上野国に逃げ帰り
俄かに城をぞ構えける」と伝える。この時は、総社の長尾忠房が築き
憲政を迎えたとも伝えられる。
それ以前に足利と上杉の系譜を整理しておく。
上杉の祖は公家の「藤原重房」、丹波国上杉庄を領したので其の地名の
「上杉」を姓とし上杉の祖となる。鎌倉幕府執権が第五代目・時頼のとき、
88代後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王が初の「宮将軍」として鎌倉に下る。
重房はこの時に随行して鎌倉に移り公家から武士に変身。1252年の
事である。
重房の息子が頼重、又その子が憲房と清子。この清子が足利貞氏に嫁して
足利尊氏の母となる。時代は移って1335年、尊氏が足利幕府の将軍と
なると、憲房は新田一族への押えとして上野守護となる。
更に、尊氏が1349年に自分の次男の「基氏」を鎌倉の長官である関東管領に
任ずる時、憲房の息子の憲顕は「執事」になり上野・伊豆・越後三カ国の守護を
命じられる。鎌倉の役所が幕府に倣って整備された時、長官は「公方」、執事は
「関東管領」となった。憲顕の子の顕方が初代の山内上杉当主。


1409年に公方になった持氏は公方の家系が足利の本流に近かったため、
将軍になりたいの一念に凝り固まっていた人物らしい。
つまり、足利幕府の初代・尊氏の長男・義詮は二代将軍に、弟・基氏が初代の
鎌倉公方、基氏・氏満・満兼と繋いで持氏は四代目の鎌倉公方であつた。
公方になったのは僅かに十二歳、専制的の上に短気、父・満兼の真似をして
事有る毎に反幕の態度を示す。
父の満兼には1399年の大内義弘の「応永の乱」に呼応して幕府攻撃を
策した前歴がある。同時期の三代将軍・義満の息子でこれも強気な専制政治の
四代将軍・義持と対立。
そして、1416年には時の関東管領・犬飼上杉氏憲(禅秀)を更迭し大規模
叛乱を引き起こす因を作る。これが名高い上杉禅秀の乱とそれに続いた騒乱。
幕府は反持氏の関東諸将を糾合して倒公方を画策。こんな切迫の情況の中で
上杉憲実が越後上杉から養子に入り、1419年に十歳で管領となる。
憲実は「賢才知勇あり」と記録された人物で好学で「足利学校」の
整備の実績も有る。
持氏の関東扶持衆を討伐して自己勢力を拡大する行動に対して憲実は常に
これを制する立場をとってきたが、1438年の持氏長男の元服の儀に
際して公方家の元服は京都で、将軍から一字の烏帽子名を貰うと言う
慣例を無視して鶴ヶ岡八幡で元服の儀を行った。これに憲実が強く諫言したので
両者の間が更に険悪に成り、平井への退去となったのである。
そこで持氏は平井に立去った憲実を追って兵を起こす。が、上杉軍の奮闘で
撃退され、幕府軍も持氏討伐に参加したので鎌倉に逃げ帰り永安寺で自決し
鎌倉公方は滅亡。持氏には乱で父と共に自決した長男のほかに、男子が三人
残されたが残党達に担がれて下総の結城で叛乱を起こす。世に言う結城合戦。
一年に亘る攻防の末、幕府軍が制圧し(1440年)次男・三男は処刑、
末子の永寿丸のみ許されて、後の1450年に鎌倉公方を再興し元服の後、
成氏と改名。反上杉の思いは変わらず。
上杉との争いは続き、1455年に時の管領・憲忠を殺害して幕府軍の
攻撃を受け、下総・古河に逃れて「古河公方」を称するが、これを抑える
ために1457年に幕府が政知を派遣するが鎌倉に入れず、伊豆・堀越に
堀越公方としたので鎌倉公方は二分する。
但し、後の北条の台頭によって堀越公方は1491年、古河公方は1583年
に滅亡している。話しを戻す。
「永亨の乱」のあと、憲実は主君たる持氏討伐を悔いて伊豆に隠棲し次男・
房顕に越後の所領を譲っただけで関東管領は名代を置くという異常事態。
しかし、山内上杉への諸将の信望は益々厚く鎌倉公方空席の関東治世では
山内上杉に権力は集中する。
長門市・大寧寺の憲実墓所

やがて周囲の配慮で長男・憲忠を還俗させ1448年に管領とする。
翌年、前述の様に、持氏の遺児・成氏が鎌倉公方を再興したので昔の抗争が
復活。時に成氏16歳、憲忠17歳。
果たして1454年、所領争いから成氏が憲忠を殺害(亨徳の乱)。
憲忠の後継は越後から「房顕」を迎えて平井に入らせるが、抗争の
陣中で1464年に急死、替わりは再び越後から「顕定」1465年。
顕定は本格的に平井城を改築、公方勢力や扇谷上杉との抗争に備える一方で
養子の顕房(憲実の孫)と共に上州兵を率いて越後の平定に乗り出してその
大半を制圧したが全域に至る前に戦死、46年間の管領としの活躍が終った。
顕房が1525年に平井城で没すると、次代を継いだのは幼年の「憲政」、
生来の暗愚とされ、学問を修めるでもなく、武芸の修練もせずに華美を好み
酒色に溺れ贅沢三昧。当然の事に悪臣は蔓延り家風は衰退した。
しかし、世間は戦国大名が台頭し、早雲に始まる後北条は三代目・氏康が
隆々と栄え、甲斐では源氏の正当派・武田晴信、越後には鬼神・長尾為景。
しかし、名家を自認する憲政は新興勢力を憎み侮り、目の敵にする。
その結果が、川越・神流川と対北条ニ連敗に続いて平井城を奪われる。
奪われたというより家臣が逃亡して戦にならず、自身も夜陰に紛れて
越後に逃亡したのである。(1551年)。それも二児を置き去りにして
死亡させた。
竜若丸の供養搭

そして長尾に上杉姓と管領職を譲るという末代までの失態を繰り広げ、
挙句の果てに内紛の時に誤って殺害される。
米沢・照陽寺にある墓所

実際には憲政は逃亡後に利根川上流を放浪し越後に入ったのは1552年
であり景虎を養子にして管領を譲ると約束はしたが任命は幕府の責務で
あったので正式には上洛した1559年。長尾景虎は景虎・政虎・輝虎
との改名を経て上杉謙信。
1578年、戦国真っ只中で謙信が急死すると、越後は跡目相続で大混乱。
直江兼続の担ぐ景勝派と北条からの養子・景虎の一戦。これが「御舘の乱」で
1579年まで続き、景勝が勝利するが、その抗争の末期に景虎派の憲政は
両者の和睦を図るため景虎の子を人質に出そうとして城外に出たところを
景勝側の武将に誤って殺害され、名門・山内上杉の血筋を断つことになった。
従って平井・金井城の上杉の時代は顕実が逃れてきた1439年から
憲政が逃亡した1551年までと云う事になる。北条の城になった平井は
後年、謙信が奪還して東毛攻略の拠点とするが、厩橋に主力を置くに至って
平井・金井は破却された。
或る資料では謙信が落城の翌年の1552年に北条から奪還したと書いてあるが
残念ながら謙信の関東出馬は1560年が初めてなのだ。
察するに落城後の数年は北条の手に有り、1560年以降に再び上杉の手に
戻ったが既に役割が終っていたと云う所かな。
金井城は平井の要害城であったが「平井詰城」とか太田に因んで「金山西城」
とも呼ばれるが史跡整備事業で「金山城」に統一されたとか。
昭和61年から63年にかけての発掘では遺構が確認されているが城郭の
築城時期は特定されていないらしい。しかし、平井の詰城であるから
山内憲実の平井への逃避の時期と同じと考えても問題はない。後の調査では
数カ所の虎口や本丸周辺の通路を天正年間の築と判定する研究家も居たので
廃城のあとも細々と存続して利用されていたのかも知れない。
と、云うのが色々な本などからの百%受け売りの一席。


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