教育落書き帳

教育とは何か…子どもの視点を尊重し、親、伴走者、市民の立場から語ります。子どもを語ることは未来への信頼と希望を語ること。

子どものいじめ自殺の背後にあるもの-----家庭と学校と

2015年07月08日 | 学校教育


「<矢巾中2死亡>「いじめ?」ノートにに自殺示唆」 ← クリック

▼今朝の河北新報の記事である。学校側の言い逃れ、責任回避の姿勢ばかりが露骨に見える。担任はノートを通して本人からいじめられる悩みを訴えたり、死の予告までして苦しんでいる事実を確認していながら、本人の声には一切応えようとはせず、本人の家庭にも電話一本かけていない。それでいて学校側は「アンケートでは、いじめは確認されなかった」といけしゃあしゃあと言いのける仰天の対応ぶり。
学校というところの相変わらずの責任逃れの姿勢である。「またか!」と思う。

▼ところが、一般の親御さんは子どもの命まで含めて学校に丸ごと預けてしまう。完全にお任せで無防備だ。学校も困るだろう。「大事な我が子」と言いながら、何一つ対策を考えていない。日頃から自分で自分の命を守る基礎的な感覚くらいは養っておきたいところだが、それも全くの人任せ、「学校が何とかしてくれるだろう」の感覚である。
学校教育が日本に導入される前の寺子屋教育の時代には、少なくとも我が子の教育は各家庭が責任をもって実行していたはずである。我が子を一人前の成人に育てることは親の責務であったのだから。愛すればこそ厳しさもあった。

▼学校が子どもの教育に十全であれば問題はない。ところが、学校がそうであったことは一度もあるまい。そこまで学校に依存するかという問題もある。学校の能力の限界を超えていることを学校に求めていることはないか?まだ年端の行かない中2の子どもが人生に絶望して自殺するなどということは決してあってはいけないことだが、学校には絶えずいじめがあり、場合によっては自殺者も出ている。これが現実の学校の姿である。
教師たちは子どもの教育のプロなのだ。あらゆることを想定して生徒たちの生きる多種多様な現実と向き合ってほしいものだ。保身に走る醜態など誰も見たくない。たとえそうならざるをえない現実があるとしてもだ。

▼保護者もまた、どういう状況の学校に我が子を通わせているかを把握していなければなるまい。学校が子どもの居場所ではなくなった時、自分の命を守るためには一旦身を引いてもいいことを、なぜ子どもによく言い聞かせていなかったのか?なぜ親御さんは日々の接触の中で学校を離れてもいいことを子どもに伝えていなかったのか?もし、親が子どもの存在を丸ごと受け入れる姿勢を見せていたなら、子どもは決して死を選ぶことはないのではないか?
生徒が死してもなお責任逃れに終始する学校の姿は実に醜い。しかし、死を選択した子どもがあらゆる建前を投げ捨てて親の懐に飛び込んではこなかったという現実はさらに重い。親として悔いても悔やまれぬ思いでいっぱいだろう。

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