▼今日8月9日は2個目の核爆弾が長崎に投下された日。各地で核廃絶平和のための式典が、広島に続き行われる。1個目の広島への投下で人間業とは思えない破壊力を確認した米国がなぜ手持ちの2個目までも敢えて投下しようとしたか…?
そこには諸説があり、もし日本が白人国であればそもそも原爆を投下するという発想は生まれてこなかっただろうとも言われている。
(しかし、実際は二度の原爆投下で日本が終戦を決意したわけではなかった。日本が完全に白旗を掲げたのは樺太等へのソ連の参戦・南下があったからであった。)
▼いづれにせよそのような二度の大惨禍(第五福竜丸の事件を入れれば3度の核被爆)をくぐり抜け非核反戦を固く誓ったはずの日本が、いつの間にかアメリカの核戦略の傘下に入り、アメリカの指導を受けて世界有数の原発大国に変身してしまっていた。そこに国際社会に翻弄される日本、天然資源に乏しい日本の悲哀がある。
しかし、それにしても…という思いは以前からずっとあった。私が関わっていた太田堯先生(元日本子どもを守る会会長・東大名誉教授)主催の「子どもの目」の学習会でも、先生は「マネーが第一となった日本社会」ということを何度も口にされていた。
▼今月から購読し始めた東京新聞の今日の記事に、今年の6月9日スペイン・カタルーニャ国際賞授賞式(カタルーニャと言えば、ピカソ・ミロ・ダリ・カザルス・ガウディ…様々な芸術家を想起する)での作家・村上春樹氏のスピーチが全文掲載されている(時に注目記事が全文載るのが三大紙以外のいいとこだ)。
そこに「核への「ノー」の叫び続けるべきだった」という横断のサブ見出しが挿入されている。負けた元凶は何か。「効率」だと氏は言う。これは太田堯氏の言った「マネー」と同じことである。
▼先日、さいたま市浦和コルソ7Fで開催された「戦争平和展」に行ってきたが、今回は会場の半分以上が原発関係の出し物で占められていた。第二次世界大戦について体験的に知っている人もだんだん少なくなり、記録作業も急がれる。会場には若い人も訪れ訊ねるが伝達作業も困難があるようだ。やはりやがて風化してしまうのだろうか。
ここでもやはり来場者の第一の関心は原発にある。福島第一原発の事故で日本は計4度目の原子力災害を体験したことになる。今回で改めて思うことは、それが今までは廃絶に向かうよりはまがい物の「安心」「安全」「免疫力」を過信するように向かっていたのではないかということ。被爆国としての使命を放棄し、日本は国際社会の「効率」の論理に飲み込まれて来てしまったのである。
▼「効率」「マネー」の論理に対抗できる指針を国家目標として打ち出せるのか否か…。そういう価値観の目標設定が今日本国に課せられている。とても重たい課題である。もし、それが打ち出せなければ、一時期抗ってはみるものの、日本はやはりもとの「効率」「マネーの」論理に捻じ伏せられていってしまうだろう。
もちろん、それは国家としての目標だから、個人がどんな選択をしようとそれは個人の自由であるということは可能なレベルの社会に我々は生きている。それが最後の救いかもしれない。
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