(3)子どもの生きる世界…体験の大切さ
▼子どもたちの生きる世界の狭さ
今回の北海道旅行を終えて改めて感じることは、子どもたちの世界の狭さである。どうもこれは不登校生だからということではないようである。むしろ「学校」という純粋培養というか無菌室というか、社会から半ば隔離されその中で育ったことによる今の子ども達に共通の特徴かもしれない。これは子ども達が問題ということではなくて、大人たちの教育観の反映ではないかとも考える。それをひとことで言うならば、「子ども達は学校以外の世界に興味や関心を持てない世界を生かされている」ということである。
▼何でも見てやろう!聞いてやろう!
限られた日程と費用との中でのせっかくの北海道旅行ではあったが、子ども達は自分達の世界に設けられた小さな窓からわずかに興味や関心を引くものを、自分を安全地帯に置いたまま、ちらちらと眺めているだけのようにも見える。「書を捨てて街に出よう!」と言ったのは劇団・天井桟敷を率いたかの(劇作家というべきか詩人・歌人と言うべきか)寺山修司であったし、「何でも見てやろう、聞いてやろう!」と言ったのはかつてフルブライト留学生となってアメリカを闊歩して歩き、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を率いて戦後日本の市民活動の礎を築いたとも言える作家のあの小田実であった。フリースクール・ぱいでぃあが学校を離れた子ども達(不登校生達)に「もっと広いもっと自由な新たな学びの方法」として取り入れているのも、彼らのこのやり方から来ている。
▼不登校生たちの思いとは
もちろん、彼らのように特異な才能に恵まれた人間と不登校生とが同一に論じられるわけはない。しかし、学校を離れた子ども達は大なり小なり学校という空間に違和感を感じ、そこで自分は学ぶことは出来ない、生活を続けることは出来ないという思いを抱いた子ども達であるはずだ。その意味では、もっと囚われのない場所で学びたい、自分をやり直したいと考えた子ども達でもあるはずだ。だが、いま社会の中で生きている大人の視野と中学生くらいの子どものそれとは大きく異なる。子ども達は今まで自分が生きてきた世界しか知らないのである。その範疇の中でしか選択することはできないにだ。
▼体験を通して現実を見る
そういう子ども達に必要なのは、身体丸ごとの体験を通して感じること考えることであって、限られた知能の小窓を通しての疑似体験を通して考えることではない。ぱいでぃあが行なう旅行は、単なるお遊びでも、知識の延長でもなく、いわば改心(回心)とか転向とでも呼ぶべき精神や感覚の脱皮の体験をするためである。だから、その意味で、2泊3日というささやかな旅行ではあるが、単なる日常の延長ではなく非日常の体験の旅でありたいのだ。そういう非日常の体験を通すことで、再び日々自分達が生きることになるこの日常的現実が新たな様相を帯びて眺められるようになるやも知れぬからである。
▼社会人と共にする旅行
この3日間、44人の社会人の一員となっての旅であった。ぱいでぃあの旅は普通の社会人と一緒であるというのが、学校のお誂えの修学旅行とは大きく異なる。学校での旅行は終始学校の範疇の視野での旅になる。しかし、ぱいでぃあの旅は敢えて社会人との旅に参加し、子ども達に社会人としての行動を学んでもらうことを重視している。同時に社会人の方々にも陰に陽に協力してもらうことになる。向こうから問わない限りこちらから敢えて表明することはないが、必ず「どういうグループか」と聞いてくる何組かの人たちがいる。そして、こちらの活動を了解しそれとなく距離を置いて協力してくれる。しかし、子ども達には社交辞令というものと大人が仕事としてやっていること、親身になって言っていることとその場の空気を読んでの振る舞いというものとの区別がまだつかないこともある。だから、話の分かる親切なガイドさんなどと思って気安く寄って行くと、図らずも温室のカバーが外されたむき出しの社会の現実に触れることになることもある。彼(彼女)らはサービスで仕事として如才なく振る舞いはするが、フリースクールのスタッフではないのである。
▼子どもたちの脱皮のきっかけになれば
そんなこんなの3日間の子どもたちの旅行体験が、初めての新鮮な体験やその風土や人との出会いなどを織り交ぜながら、今後にどう引き継がれて展開していくのか興味深いものがある。束の間の分離ではあったが「子離れ・親離れ」という観点からも、子どもたちの脱皮のための一つのきっかけとなればいいと思っている。
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▼子どもたちの生きる世界の狭さ
今回の北海道旅行を終えて改めて感じることは、子どもたちの世界の狭さである。どうもこれは不登校生だからということではないようである。むしろ「学校」という純粋培養というか無菌室というか、社会から半ば隔離されその中で育ったことによる今の子ども達に共通の特徴かもしれない。これは子ども達が問題ということではなくて、大人たちの教育観の反映ではないかとも考える。それをひとことで言うならば、「子ども達は学校以外の世界に興味や関心を持てない世界を生かされている」ということである。
▼何でも見てやろう!聞いてやろう!
限られた日程と費用との中でのせっかくの北海道旅行ではあったが、子ども達は自分達の世界に設けられた小さな窓からわずかに興味や関心を引くものを、自分を安全地帯に置いたまま、ちらちらと眺めているだけのようにも見える。「書を捨てて街に出よう!」と言ったのは劇団・天井桟敷を率いたかの(劇作家というべきか詩人・歌人と言うべきか)寺山修司であったし、「何でも見てやろう、聞いてやろう!」と言ったのはかつてフルブライト留学生となってアメリカを闊歩して歩き、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)を率いて戦後日本の市民活動の礎を築いたとも言える作家のあの小田実であった。フリースクール・ぱいでぃあが学校を離れた子ども達(不登校生達)に「もっと広いもっと自由な新たな学びの方法」として取り入れているのも、彼らのこのやり方から来ている。
▼不登校生たちの思いとは
もちろん、彼らのように特異な才能に恵まれた人間と不登校生とが同一に論じられるわけはない。しかし、学校を離れた子ども達は大なり小なり学校という空間に違和感を感じ、そこで自分は学ぶことは出来ない、生活を続けることは出来ないという思いを抱いた子ども達であるはずだ。その意味では、もっと囚われのない場所で学びたい、自分をやり直したいと考えた子ども達でもあるはずだ。だが、いま社会の中で生きている大人の視野と中学生くらいの子どものそれとは大きく異なる。子ども達は今まで自分が生きてきた世界しか知らないのである。その範疇の中でしか選択することはできないにだ。
▼体験を通して現実を見る
そういう子ども達に必要なのは、身体丸ごとの体験を通して感じること考えることであって、限られた知能の小窓を通しての疑似体験を通して考えることではない。ぱいでぃあが行なう旅行は、単なるお遊びでも、知識の延長でもなく、いわば改心(回心)とか転向とでも呼ぶべき精神や感覚の脱皮の体験をするためである。だから、その意味で、2泊3日というささやかな旅行ではあるが、単なる日常の延長ではなく非日常の体験の旅でありたいのだ。そういう非日常の体験を通すことで、再び日々自分達が生きることになるこの日常的現実が新たな様相を帯びて眺められるようになるやも知れぬからである。
▼社会人と共にする旅行
この3日間、44人の社会人の一員となっての旅であった。ぱいでぃあの旅は普通の社会人と一緒であるというのが、学校のお誂えの修学旅行とは大きく異なる。学校での旅行は終始学校の範疇の視野での旅になる。しかし、ぱいでぃあの旅は敢えて社会人との旅に参加し、子ども達に社会人としての行動を学んでもらうことを重視している。同時に社会人の方々にも陰に陽に協力してもらうことになる。向こうから問わない限りこちらから敢えて表明することはないが、必ず「どういうグループか」と聞いてくる何組かの人たちがいる。そして、こちらの活動を了解しそれとなく距離を置いて協力してくれる。しかし、子ども達には社交辞令というものと大人が仕事としてやっていること、親身になって言っていることとその場の空気を読んでの振る舞いというものとの区別がまだつかないこともある。だから、話の分かる親切なガイドさんなどと思って気安く寄って行くと、図らずも温室のカバーが外されたむき出しの社会の現実に触れることになることもある。彼(彼女)らはサービスで仕事として如才なく振る舞いはするが、フリースクールのスタッフではないのである。
▼子どもたちの脱皮のきっかけになれば
そんなこんなの3日間の子どもたちの旅行体験が、初めての新鮮な体験やその風土や人との出会いなどを織り交ぜながら、今後にどう引き継がれて展開していくのか興味深いものがある。束の間の分離ではあったが「子離れ・親離れ」という観点からも、子どもたちの脱皮のための一つのきっかけとなればいいと思っている。
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