この禅語は、看脚下とともに脚下照顧、照顧脚下と、語られる。五祖法演襌師と弟子たちのお話として、暗くなった夜道で灯を失って、さあ、どうする、というわけで、すかさず答えた三人三様の一つが、足元に気をつけよ、というものであったので、師はそれを良しとしたという話である。解釈には、自分の立っているところを看よという教えになる。あるいは、眼前に在らぬものを想像したり、惑わされたりするな、また、足元がしっかりしていればよいのである、ということで、うろたえるなと言うことか。あと旬日にして、仕事から解放されて、さて何が見えるか、どうなること思うこのときに、まずは、見つめてみよう。
〔碧巌録、第二十二則〕
師高聲喝云。看脚下。
師し、高声こうしょうに喝かっして云いわく、「脚下きゃっかを看みよ」。
看脚下
www.page.sannet.ne.jp/mkimura/tawagoto/01/kankyakka.htm
看脚下」は、ご存知のとおり、数ある禅語の中でも特に代表的なものです。五祖法演襌師と弟子たちのお話です。ある夜の帰り道、手にしていた灯火が消えてしまいました。この時、法演襌師が「さあ自己の見解を述べよ」と命じ、園悟克勤は「看脚下(足元を見よ)」 ...
http://ameblo.jp/commun-2012-kouryu/entry-11693528855.html
ストレスを軽減するために禅語を紐解く - 看脚下(かん/きゃっか)
2013-11-18 11:20:55
>
中国の宋代の
臨済禅師、圜悟克勤(えんご/こくごん)の言葉
自分がこれまで辿ってきた過去を全て見定めた上で、
これまでの自分を反省し、
これから自分が行う道と
これから出会うであろう
人たちとの関係をを見出す。
禅語「看脚下」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト - 臨黄ネット
www.rinnou.net/cont_04/zengo/060701.html
>
看脚下
(五家正宗贊)かんきゃっか
『和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集―』
(2005.11禅文化研究所編・刊)より
天龍寺の峨山がさん和尚が、師匠の滴水てきすい和尚の紹介状を持って、初めて東京に出て、鉄舟居士を訪ねた時、生憎書生がいなかったとみえて、鉄舟居士が自分で台所から鉄瓶を提げて出てきました。居士は紹介状を読むと、「上がれ」と言って、鉄瓶をそこへおいたまま、中へ入ってしまわれました。峨山和尚はその鉄瓶を提げてあとからついて行って、室の火鉢の上にその鉄瓶をかけてから挨拶をしました。
鉄舟居士がそれ以来、「峨山こそ禅僧らしい禅僧だ」と大いに峨山和尚を推すい賞しょうされたという話があります。鉄瓶は玄関にあるべきものではない、火鉢の上にあるべきものであります。そのあるべきところに、そのものをあらしめることが、調えることであり、禅であります。
私は、このごろ神戸と京都の間を、毎日のように往復していますが、電車の乗り降りのたびに、「ああ、これではねー」と思って情けなく感ずるのです。国民諸君の脚下が、あまりにも乱れておるのです。なぜ規則どおり、二列に並んで静かに乗れないのでしょうか。なぜあんなにあわてて先を争うのでしょうか。中はガラ空きで、ゆっくり乗っても充分席はあるのに、あわてるのです。なぜ横合いから人を押しのけて割り込むのでしょうか。二人ずつ乗れば楽に乗れるのに、なぜ三人が一度に乗ろうとするのでしょうか。入り口がつまるから、ますます時間をとるのです。なぜ脊髄を真っ直ぐに伸ばして、堂々と乗れないのでしょうか。前かがみになって、先の人を押すから、群衆が鞠まりのようにかたまって、入り口にふさがるのです。
今日の停車場は国の玄関先であります。日本という国の大玄関は、ごらんのごとく毎日大混乱であります。国民の脚下は乱れ放題であります。盗人が入らずにおりましょうか。
誰かが勢いよく再軍備と言えば、群衆はわけもなく、「わあー」とそのほうへ走るでしょう。また、誰かが暴力革命と叫べば、群衆の半ばはまたそのほうへ「わあー」と走るでしょう。かくて日本が朝鮮の二の舞いを演じて、外国人に踏み荒らされることは、火を覩るよりも明らかであります。それでなかったら、国を丸ごと盗まれても気がつかないでいるでしょう。今日の国民諸君にお願いしたいことは、高遠な理想や道義ではなくして、「脚下を見よ」ということであります。しっかり脚を大地に踏みしめてもらいたいことであります。そして静かに、日本民族のあるべきようを考えなくてはならぬことであります。
相撲取りは土俵に上がったら、すり足で取り組むのが原則だそうであります。能の舞は舞台をすり足で歩くのだそうであります。いつも大地を踏みしめて浮き足にならぬことが、日本民族の本来の姿であります。いかなる場合に臨んでも乱れない、よく調えられたる心、これを「禅定波羅蜜ぜんじょうはらみつ」と名づけます。
https://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/200908.html
>企業経営の要諦もこれではないか。もちろん、経営者にとって、理想やビジョンを高らかに掲げ、会社の百年の大計に向かって進んでいくことは大変重要である。しかしながら、それだけではなく、自らの足もと、すなわちその企業の置かれた現状・実態を踏まえることを忘れてはならない。
〔碧巌録、第二十二則〕
師高聲喝云。看脚下。
師し、高声こうしょうに喝かっして云いわく、「脚下きゃっかを看みよ」。
看脚下
www.page.sannet.ne.jp/mkimura/tawagoto/01/kankyakka.htm
看脚下」は、ご存知のとおり、数ある禅語の中でも特に代表的なものです。五祖法演襌師と弟子たちのお話です。ある夜の帰り道、手にしていた灯火が消えてしまいました。この時、法演襌師が「さあ自己の見解を述べよ」と命じ、園悟克勤は「看脚下(足元を見よ)」 ...
http://ameblo.jp/commun-2012-kouryu/entry-11693528855.html
ストレスを軽減するために禅語を紐解く - 看脚下(かん/きゃっか)
2013-11-18 11:20:55
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中国の宋代の
臨済禅師、圜悟克勤(えんご/こくごん)の言葉
自分がこれまで辿ってきた過去を全て見定めた上で、
これまでの自分を反省し、
これから自分が行う道と
これから出会うであろう
人たちとの関係をを見出す。
禅語「看脚下」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト - 臨黄ネット
www.rinnou.net/cont_04/zengo/060701.html
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看脚下
(五家正宗贊)かんきゃっか
『和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集―』
(2005.11禅文化研究所編・刊)より
天龍寺の峨山がさん和尚が、師匠の滴水てきすい和尚の紹介状を持って、初めて東京に出て、鉄舟居士を訪ねた時、生憎書生がいなかったとみえて、鉄舟居士が自分で台所から鉄瓶を提げて出てきました。居士は紹介状を読むと、「上がれ」と言って、鉄瓶をそこへおいたまま、中へ入ってしまわれました。峨山和尚はその鉄瓶を提げてあとからついて行って、室の火鉢の上にその鉄瓶をかけてから挨拶をしました。
鉄舟居士がそれ以来、「峨山こそ禅僧らしい禅僧だ」と大いに峨山和尚を推すい賞しょうされたという話があります。鉄瓶は玄関にあるべきものではない、火鉢の上にあるべきものであります。そのあるべきところに、そのものをあらしめることが、調えることであり、禅であります。
私は、このごろ神戸と京都の間を、毎日のように往復していますが、電車の乗り降りのたびに、「ああ、これではねー」と思って情けなく感ずるのです。国民諸君の脚下が、あまりにも乱れておるのです。なぜ規則どおり、二列に並んで静かに乗れないのでしょうか。なぜあんなにあわてて先を争うのでしょうか。中はガラ空きで、ゆっくり乗っても充分席はあるのに、あわてるのです。なぜ横合いから人を押しのけて割り込むのでしょうか。二人ずつ乗れば楽に乗れるのに、なぜ三人が一度に乗ろうとするのでしょうか。入り口がつまるから、ますます時間をとるのです。なぜ脊髄を真っ直ぐに伸ばして、堂々と乗れないのでしょうか。前かがみになって、先の人を押すから、群衆が鞠まりのようにかたまって、入り口にふさがるのです。
今日の停車場は国の玄関先であります。日本という国の大玄関は、ごらんのごとく毎日大混乱であります。国民の脚下は乱れ放題であります。盗人が入らずにおりましょうか。
誰かが勢いよく再軍備と言えば、群衆はわけもなく、「わあー」とそのほうへ走るでしょう。また、誰かが暴力革命と叫べば、群衆の半ばはまたそのほうへ「わあー」と走るでしょう。かくて日本が朝鮮の二の舞いを演じて、外国人に踏み荒らされることは、火を覩るよりも明らかであります。それでなかったら、国を丸ごと盗まれても気がつかないでいるでしょう。今日の国民諸君にお願いしたいことは、高遠な理想や道義ではなくして、「脚下を見よ」ということであります。しっかり脚を大地に踏みしめてもらいたいことであります。そして静かに、日本民族のあるべきようを考えなくてはならぬことであります。
相撲取りは土俵に上がったら、すり足で取り組むのが原則だそうであります。能の舞は舞台をすり足で歩くのだそうであります。いつも大地を踏みしめて浮き足にならぬことが、日本民族の本来の姿であります。いかなる場合に臨んでも乱れない、よく調えられたる心、これを「禅定波羅蜜ぜんじょうはらみつ」と名づけます。
https://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/200908.html
>企業経営の要諦もこれではないか。もちろん、経営者にとって、理想やビジョンを高らかに掲げ、会社の百年の大計に向かって進んでいくことは大変重要である。しかしながら、それだけではなく、自らの足もと、すなわちその企業の置かれた現状・実態を踏まえることを忘れてはならない。