文章研究、文章論問題となるのは、日本語の文章を理解し日本語で文章を表現することが困難になっている時代が、いま、現在にある。極端な言い方をすれば、国語学者は国語教育においてその実践を積み重ねているにかかわらず、文章技術のツールに国語文法を活かせなくなってしまって文章作成に実践教育に戸惑いがある。ワードプロセサー実現による、パソコンツールの便利さにおいて、文章とは何かを捉えることがなくなってしまっている傾向にある。メール、スマホ、タブレットと、筆記具ならぬ文書処理はテンプレートによるものでできあがる時代であるし、さらに文章表現を工夫することが少なくなってきたため、表現の彫琢、推敲の過程がないのである。
このことに気づいているのは大学を卒業したばかりの新人を社会に迎え入れた企業、団体、そして組織である。その時点ではきづかれないままに、文章を書くということ、自己表現をするということができなくなっている若者たちが、文章を表現して見せるのはパターンによる作文、自己表現は言語のほかの手段を用いて済ませる、それは悪いことだったり特別なことであったりするわけではないが、一方でその弊として、文章理解ができないということが中堅の社会を支えるひとたちのある問題を引き起こしている。国語教育にあるのではない、英語教育の影響で日本語文法を変えてしまった日本語学舎、話し言葉の分析を、さも日本語研究のように議論してきた日本語研究者の所業である。 . . . 本文を読む
形音義による漢字の説明は中国から伝来した音義書によるものである。仮名文字を工夫して、文字に形音だけを表したから、その文字の組み合わせは漢字の訓に用いられた。もちろん日本語として語を意識するものであったが、仮名文字にして一字にあらわす語もあった。しかし一音一義は限られたことであった。文字の分類は語の分類でもあったが、それは漢語に倣うものであった。文字に写した言葉を文法によって分類をしたのは時代が下がって近世である。品詞の意識は翻訳の概念とその命名によって確かにするが、西洋文法の影響で、近代以前、幕末のころにまで下がってくる。いずれも和歌の技法、句の用法に根差す国語の捉え方で、文法に拠る分類を明治以降、大槻文彦、山田孝雄などにみる。 . . . 本文を読む