阿修羅を表現して憤怒の相を言う。説明によれば、大乗仏教時代に、その闘争的な性格から五趣の人と畜生の間に追加され、六道の一つである阿修羅道(修羅道)の主となった、とある。ウイキペディアより。さらに、次のようである。もと生命、生気の善神であったのだから、どうなったのか。常に戦う桃として、そしてまた、帝釈天に敗者であり続けるとして、修羅場を作る。あの独特の立像は、三面六臂である。どうして高い地位の神が戦闘真意名tt化の話は興味深い。正しくして、怒り過ぎて、追い出される羽目になるとは、似たようなことがあるではないか。阿修羅と修羅は、日本語で発音して、その語の響きにもひらきがある、修羅道、修羅場はわたしたちになじみがあるところで、阿修羅の姿には、逸話が語るやり切れぬ思いを見て取るのかもしるない。 . . . 本文を読む
日本人に柔軟性がある、ない、そのいずれか。その一つに、宗教心があげられる。宗教に対して日本人は、神道、仏教、キリスト教という、宗教を生活にとりいれていて、それを違和感なく、意識していない。これを地域によってみるなら、理解しがたい行動様式になる。そのことを日本人の柔軟性とみると、日本人の宗教性にかかわる。その一方では柔軟性にまったく欠けるような信仰を示すことがあるので、信仰とはそういうものだから、あらためて柔軟であるとはどういうことかと考える。おもしろいことに、日本人の方が外国人に比べて体は硬いイメージがする、という医学療法士のブログ報告がある。まさに身体が柔らかいという。そうすると、柔軟性をどう見るかは、日本人お持つ特性なのか、あるいはさきの例のように、生活習慣からか、物理的に見るか、精神的に見るか、思想の持ちようにも至る。 . . . 本文を読む