枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

鶯の声聴こゆ

2014年03月15日 | Weblog

 春めいた陽射しに、山の鶯がホーケチョ、ケチョ。何度もうれしそうに鳴く。布団を剥いで起き、庭に出る。快晴ににんまりして、布団を干す。午後からの勤務なので、今しかない。朝と昼を兼ねて摂り、洗濯をしておく。体が少しだるい、と検温すれば36.4。

 上昇しそうなので抜き取り、気合を入れて出かける。ちょうど昼食時間であったため、賑やかな風景だ。目配り、気配りを怠らず、顔色を見つつ業務に励む。ちょっとした変化にも、心を向けていないと慌てることになる。異変を察知し、見守ることが肝要だ。

 昨夜は、夕刻から市内まで古典落語を聴きに行った。贔屓の噺家で、この人の演じ方がいい。某新聞に連載していた伊勢参り、単行本になったので求める。ちゃっかりサインを(自分宛)入れてもらった。心が春めいた。帰宅したらPM10:07で、遅い夕食。

 演題が、上方落語では、江戸落語とは違う。落語万年カレンダーを買ったが、これが偶然にもその日にあった。手向け茶屋(お見立て)貧乏花見(長屋の花見)となっていたのだ。贔屓の噺家は、実に所作が粋。同じ噺でも巧い。惹きこまれる噺振りである。

 勤務時間を過ぎたが、直ぐに帰らないのがいいような気がしてぐずぐず居た。駐車場では異常はなく、それでも大潮には注意。町道から県道に出る直前、2台の事故車を目撃する。あるんだなぁ、こういう予知が。どうしてか引き止めれ、難を逃れることに。

 朔日の塩変えには、気分が引き締まる。特に新年は尚更で、1年の無事を願う。旧暦を用いるようになって、特に変わったことには遭わないが、何かしら不思議な力が動く。リエさんは、感じたのかなぁ?我が家の庭に下りて、花木に挨拶してたでしょう。

 今年の枇杷葉は裏年で不作、というけれども、我が家のはちゃんと付いている。何故なのかは断定できないけど、朝な夕なに声をかけ、感謝して接していると、応えてくれるのでしょう。ゆっくりでも美味しい実をつけ、採らせてくれることがありがたいのね。

 自然からの贈り物には、たくさんの命が宿っている。農薬をかけず、いとおしんで育み、感謝して接すれば、花木にも想いはあろう。人間のしたことには必ず応える。それが自然の掟だ。厳しい現実であり、真摯な想いを映していよう。丹精籠める慈しみ。

 昨年の初夏、好奇心から大豆を蒔いた。何と、大きな実が入っていた。肥料も何も遣らずなのに、自然は強い。

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