枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

墓掃除・墓参り

2014年03月23日 | Weblog

 昼前に出発して、古里をおとなう。三連休で日曜日というに、人影は見られない。人声も聴こえない。小川の水がちょろちょろと流れていく。墓に着いて掃除をしていたら、間近に鶯の声。よく来てくれたね。と父母の声のように思える。掃除を済ませ、花筒を換え、華を挿す。

 しきびが高くて届かず、息子に下げてもらう。墓の近くに植えていて正解だ。藪の孟宗が、先月の雪で倒れていた。筍は掘りに来るが、その途中は訪れもしない。落葉を掃き寄せ、水を換え、手作りの散し寿しを供える。息子は、笹の落ちている坂を、丁寧に掃いていた。

 嫁も孫等も黙々と掃除を手伝い、こざっぱりとしてくれた。父母の墓の前に手を合わせ、皆が元気で居ることを報告。ご先祖さまにも、散し寿しをお裾分けし、帰りに向う。途中の坂にあった三つ葉を5株ほどもらう。昼食の清まし汁に入れるのだ。白梅が満開になっていた。

 帰宅して、息子の家族と昼食を戴き、孫に卒業祝を渡し、記念写真を撮る。6年間、無事に過ごせたことはありがたい。何があっても可笑しくない世の中だ。中学生の3年間は、もっと速い。更なるスピードが加わるだろう。月日の経つのは、実際速い。年を重ねる筈である。

 片付を終え、ほっとしつつ読書に没頭する。図書館が開いていることを思い出し、風は山河より・第三巻を借りに行く。近所の子が、親とサッカーをしている。何処かに出かけることばかりを考えるが、休日こそ読書に勤しみたいもの。体を休める日でしょ?違うのかなぁ。

 父は、平日は勤めをし、休みの日には野良に出て行った。留守番が居るのと、手が足りるからだ。遊んでなどいようものなら、夕飯を抜かれた。風呂水を汲み、草を抜いて、種を蒔き、牛の餌を遣るのも大切だった。母は炊事・家事に忙しくして、日が暮れるまで外に居た。

 何処の家庭でも似たり寄ったりで、家の中で遊んでいる児など居なかった。高学年になると尚、手伝いは増える。洗濯機も、掃除機もなかったから。我慢をするというよりも、金銭的なゆとりも、それらを使うことにも、思いは至らなかった。昭和は、実際遠くなったものだ。

 時は移り変わるが、何時如何なる場合にも、原発の稼動は許されない。贅沢はしないよう、夜は眠るために、電気は消そう。団欒を楽しみ、心の交わりを行い、書籍に親しもう。躾は家庭で行い、善悪の判断をできるよう、社会の仕組みを知ろう。羹に懲りて膾を吹く。

 庭中に、小さな苗木まで入れると、唯に60本を越える。今年、花芽の付いているのは、種類が不明だが、長崎茂木ではない。葉色が薄い。

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