5月3日、日本国憲法は59回目の「誕生日」を迎えました。
しかしご存知の通り、昨年、自民党が昨年「改憲案」を発表し、民主党も「憲法提言」を発表しています。
彼らに煽られてか、世論調査では、戦争放棄を定める憲法9条は変えるべきではない、という声は今も大多数を占めていますが、憲法を変えることへの賛成は、反対を大きく上回っています。
日本国憲法は、「風前の灯」と言うべき状況にあると言わねばなりません。
しかし、私はこの国民の皆さんの「改憲賛成」の声が不思議に思えてならないのです。
私が着目していただきたいと思うのは、私たち国民・政府・憲法という3つの存在の序列です。
細かい説明は省きますが、現在の憲法は「国民」を最上位に置き、次に「憲法」を置き、その次に「政府」という序列になっています。この憲法の特性こそ、「国民のための憲法」「憲法は権力を縛るもの」といわれる所以です。
しかし、条文の形になっている自民党の改憲案を見ますと、最上位は「政府」、次に「憲法」、その次に「国民」と、完全に逆転しているのです。
政府が絶対的権力を持ち、その政府が決める「公益」や「秩序」のためだと言われれば国民は、「知ること」「思うこと」「考えること」「言うこと」「住むこと」「働くこと」などはもちろん、「学ぶこと」「愛すること」、そして「生きること」までもが統制されようとしているのです。
これでは、まるで政府の奴隷です。
改憲に賛同すること、それは自分、家族、友人、そしてその子や孫をも「政府の奴隷」にしてしまうことを意味しているのです。
これを選択することは、今を生きる私たち国民、そして将来の国民である子孫を裏切る行為です。
子孫だけではありません。祖先に対しても同じことが言えます。
憲法97条は、こう定めています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
この「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」「過去幾多の試練」とは何を指すのでしょうか。
私たちは、この憲法を制定するまでに、余りにも多くの祖先の血を流してきました。
政府や国家が国民の上位にあったため、国民は戦場へ駆り立てられたり、弾圧されて殺されたりしたのです。
それから僅か59年です。それまでの、政府や権力に下に置かれ、生きることさえ支配された数千年に及ぶ祖先の苦悩を、たった59年で無駄にするというのでしょうか。
今の改憲に賛成するということは、「これまで血を流してきた祖先を裏切り、これから血を流すことになる子孫を裏切る行為」なのです。
私は、今を生きる一人の人間として、こんなことを許すわけにはいきません。
この私の思いこそ、この憲法記念日に皆さんにお伝えしたいことです。
しかしご存知の通り、昨年、自民党が昨年「改憲案」を発表し、民主党も「憲法提言」を発表しています。
彼らに煽られてか、世論調査では、戦争放棄を定める憲法9条は変えるべきではない、という声は今も大多数を占めていますが、憲法を変えることへの賛成は、反対を大きく上回っています。
日本国憲法は、「風前の灯」と言うべき状況にあると言わねばなりません。
しかし、私はこの国民の皆さんの「改憲賛成」の声が不思議に思えてならないのです。
私が着目していただきたいと思うのは、私たち国民・政府・憲法という3つの存在の序列です。
細かい説明は省きますが、現在の憲法は「国民」を最上位に置き、次に「憲法」を置き、その次に「政府」という序列になっています。この憲法の特性こそ、「国民のための憲法」「憲法は権力を縛るもの」といわれる所以です。
しかし、条文の形になっている自民党の改憲案を見ますと、最上位は「政府」、次に「憲法」、その次に「国民」と、完全に逆転しているのです。
政府が絶対的権力を持ち、その政府が決める「公益」や「秩序」のためだと言われれば国民は、「知ること」「思うこと」「考えること」「言うこと」「住むこと」「働くこと」などはもちろん、「学ぶこと」「愛すること」、そして「生きること」までもが統制されようとしているのです。
これでは、まるで政府の奴隷です。
改憲に賛同すること、それは自分、家族、友人、そしてその子や孫をも「政府の奴隷」にしてしまうことを意味しているのです。
これを選択することは、今を生きる私たち国民、そして将来の国民である子孫を裏切る行為です。
子孫だけではありません。祖先に対しても同じことが言えます。
憲法97条は、こう定めています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」
この「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」「過去幾多の試練」とは何を指すのでしょうか。
私たちは、この憲法を制定するまでに、余りにも多くの祖先の血を流してきました。
政府や国家が国民の上位にあったため、国民は戦場へ駆り立てられたり、弾圧されて殺されたりしたのです。
それから僅か59年です。それまでの、政府や権力に下に置かれ、生きることさえ支配された数千年に及ぶ祖先の苦悩を、たった59年で無駄にするというのでしょうか。
今の改憲に賛成するということは、「これまで血を流してきた祖先を裏切り、これから血を流すことになる子孫を裏切る行為」なのです。
私は、今を生きる一人の人間として、こんなことを許すわけにはいきません。
この私の思いこそ、この憲法記念日に皆さんにお伝えしたいことです。
そもそも憲法は、第二次大戦の反省に基づくもので成立しましたが、戦争放棄の条項を覆すということは、戦争を新たに行うという宣言にほかなりません。戦後、武力でかたをつけることを自己否定し戦争放棄を誓った日本が、再び武力行使をしいていこうとしているそんな情勢だと思います。
> 国際貢献論→小選挙区→有事法制→国旗・国家法→盗聴法・組対法→教育基本法改悪・共謀罪→国民投票法→改憲
この流れがよく解りませんが、改憲されるべきではないという意識は同じだと思います。
改憲論議に対抗するためにも、真っ当な「国民投票法」を立法しなければいけないと思います。
さて、私は「改憲=日本再軍備論」への策動の起源は、今から58年前の米国内の研究にまで遡ることができると認識しています。その詳細は私の「本館」である「恥ずかしい歴史教科書を作らせない会」の「憲法問題資料館」をご覧頂ければ幸いです。
当時と現在では、情勢に違いがあります。しかし、次の3点は変わっていないようです。
・米国が日本を手足と認識していること
・米国が求める日本再軍備の目的が米軍の人的資源の節約、つまり日本人に米軍の肩代わりをさせることにあること
・自民党が、こうした米国の戦略実現のための傀儡勢力であること
最近やはり根拠不足により下火になった、かつての「押し付け憲法論」を唱えた人々は、いま行われようとしているのが「押し付け改憲論」であることを認識すべきではないかと思います。