〔絵画〕ゴッホのひまわりは何故退廃的なの?

2010-10-28 05:26:30 | 雑記
先日、美術館へ行き、あのゴッホの”ひまわり”も展示されてあったので、
この絵の感想を書きたいと思います。ゴルフでも音楽でもないネタも
たまにはいいのではと思いました。

”ひまわり”というと、真っ青な空の中、燦燦と太陽の日差しを
一身に浴びて、オレンジや黄色の花びらが、その美しさを
きわだたせる・・・・・・そんな印象を持たれる方も多いのでは
ないでしょうか?
イタリアのマルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンの
名優同士が演じた、あの有名な映画”ひまわり”では、黒海の何万本
もの”ひまわり”が広大な地で満開になっていた美しい映像を見ることが
できましたが、その映像が思い浮かびます。

でもでも、ゴッホの”ひまわり”は違うんですね。明るさというよりも、
暗さが目につきます。単なる1輪の”ひまわり”の花の写実ではなく、
1つ1つの花びらの描き方もさまざま。枯れそうになったり、枯れていたり、
その枯れてしまいそうな花びら群が、少し元気を保っている花びらと
対比をなして逆に際立ってくる感を持ちました。
ゴッホは、この絵で何を描きたかったのでしょうか?暫し考えたのですが、
もちろん結論は分かりません。

ここからは推測です。この”ひまわり”は、彼が見ている現実社会?あるいは、
彼をとりまく環境のことを描きたかったのでは?そんな気がします。
といっても、社会的にどうこうではなくて、自分自身を中心に見た周りを
直視して得た印象を描きたかったのでは?

同じく現実主義であり、人間の退廃を描くのがうまいロシアの文豪”トルストイ”は、
名著「アンナ・カレーニナ」の冒頭で、こんなくだりで綴っています。

~幸福な家庭は互いに似通ったものであり、不幸な家庭はどこもその不幸のおもむきが
 異なっているものなのである。~と断定しています。

この家庭というところをそのまま個人の人生とも置き換えることができると思うの
ですが、そうした場合、ゴッホも自分の人生を他とは違う不幸として見つめて
いたのかもしれません。(真実は私にはわかりません)

こんなに暗い雰囲気の”ひまわり”が描かれていたのには、驚いて
しまいました。もしかして、”ひまわり”は美や幸せの象徴なのに、
それがそこなわれてしまう現実の厳しさをじっと見つめ、
それを人に絵画表現で伝えたかったのかもしれません。

この絵画表現が、ゴッホ自身の心の安定剤にもなっていたかもしれません。
あまりに退廃的な感を受けたので、今回は、ネタを大きく転換して
書いてみました。