わき感覚と持ち球

2017-01-29 09:04:15 | ゴルフウイークリー

米ツアーが始まり、日本男子もアジアツアーと共催で

東南アジアで開幕しています。

そんなシーズン始めに、私たちのゴルフスウィングに

ついて考えてみました。

そもそもゴルファーが100人いれば、100通りの

打ち方があるように個性が出てきますが、それはなぜか?

そこに上達のヒントが隠されていると思うのです。

その個性の典型例が持ち球です。

あなたはスライス系? フック系?ドロー系?

フェード系?

人間には各人DNAがあるのですが、スウィングにも

DNAに似た個性・感覚があるのをゴルフを経験すればするほど

感じてきます。

本気で本能のままに素振りした時に、軌道がアウトサイドインに

なっていたらフェード(スライス)系、インサイドアウトになっていたら

ドロー(フック)系だという話もあります。

それくらい振りやすいスウィング軌道が私たちひとりひとりにはある

ということなのでしょうか?

もしあるとすれば、わきの感覚はどうでしょうか?

厳密にいうと、わきではなく、右と左のひじを体にどのタイミングで

密着させるか、その違いはあると思います。

では、スウィングの動きでチェックしてみましょう。

ダウンスウィングで、アウトサイドインの方は、

右ひじは体にそんなに密着させません。それより左ひじを

体に引き付けていき、左わきをぎゅっと締めながら

ボールをとらえていきます。この方が、アウトサイドインに

振りやすくなるはずです。

片や、インサイドアウトの方は、ダウンスウィングで

右ひじを体に密着させようとひきつけて、ボールを

とらえていきます。左ひじは、体に引き付けずに

割とフリーにします。このほうがインサイドアウトに

振りやすくなるはずです。

実際に、プロゴルファーのレッスンでも、フェードを

主体に打つ人は、「右ひじはそんなに締めなくていいよ」

とか「大事なのは左わきの締め」とか言う方が少なく

ありません。全員ではありませんが・・・。

ドローを持ち球にするプロのレッスンでは、

「切り返しから右ひじを体に密着させる動きを入れる」という

レッスンを聞いたこともあります。

それくらい本人の感覚の違いが、持ち球によってスウィングDNAに

よって出てくるのでは? と推論できるわけです。

もちろん、トッププロならドローもフェードも、そしてストレートボールも

打てるわけですが、それでも得意、やや苦手な球筋はあります。

それは、顔や脚の長さなど、人間の身体はシンメトリー(左右対称)に

できていないことがほとんどで、それに似てスウィングも体の

右サイドと左サイドで左右対称に振ることはできないためだと

考えられます。

しかし、これを逆手にとれば、

自分がスライスが持ち球なら、こういう特徴があると分かりますし、

逆のフックやドローを打とうと思えば、違和感を覚えても

練習を積んでドロー感覚を身につけて行けばいいことになります。

それが練習ですし、それを積むことでゴルフにも幅が出てきます。

ただし、両わきガラガラのスウィングはNGでしょう。

これは、人間の持つパワーをロスしますから、飛ばないし

軌道が定まらず球も曲がるはずです。

このわきの感覚と使い方は、ゴルフスウィングの

ブラッシュアップに重要な要素だと思います。

 

 

 


オペラ『ドン・ジョバンニ』の人間物語

2017-01-14 20:48:04 | 音楽の魅力

モーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』は、

何度味わっても新たな発見があります。

見る度に人間のサガが伝わってきて、

私たち人間の奥深さ・複雑さが

垣間見えるのです。

このオペラの筋をご存じの方は、

ドン・ジョバンニの悪行が最終的に

天上界の使者(石像)によって裁かれ、

彼が地の底へ落とされていく(地獄落ち?)

結末になるのは周知のはずです。

この結末から判断すれば、このオペラも

水戸黄門さまのように、勧善懲悪を貫く

正義の物語ということになります。

しかし、モーツァルトが言いたかったのは

それだけでしょうか?

それを解くには、登場人物の人となりも

チェックする必要がありそうです。

主役 ドン・ジョバンニ・・・放蕩を繰り返す女好きの男

ポポレッロ・・・ジョバンニの下僕

ドンナ・エリヴィーラ・・・ジョバンニの糟糠の妻

ドンナ・アンナ・・・ジョバンニに狙われた色香漂う女性で

          実父を彼に殺される

ドン・オッタ―ヴィア・・・アンナの婚約者。誠実な男性

マゼット・・・・少し粗野で朴訥な農民

ツェルリーナ・・・マゼットの婚約者

こういった登場人物が織りなす人間ドラマは、ジョバンニの

放蕩によって繰り広げられます。

~アンナを寝取ろうとしたジョバンニ。失敗し、アンナの父に

追いかけられたところ、父を殺害するジョバンニ。

当然ながら、失意に沈むアンナと仕返しを誓うオッタ―ヴィア。

~さらに、ツェルリーナを誘惑し、不倫を持ちかけるジョバンニ。

何度も口説かれるうちに、渋々承諾したツェルリーナですが、

婚約者マゼットに対し罪の意識が沸き起こる。

~自分に対する裏切り行為を行ったにもかかわらず、自分の元へ

いつかはジョバンニが戻ってきてくれると信じて待つエルヴィーラ。

 

それぞれの登場人物には役割がちゃんと備わっています。

自分の性格と価値観とをふんだんに生かし、問題に対処しようとする

役割りが、ストーリー上を流れていきます。

最後は、前述したように、ジョバンニが裁かれるのですが、

この直後の終章で、ジョバンニ以外の登場人物6人による

6人合唱で幕を閉じるのです。

これは何を意味するのでしょうか?

善人どおしの慰めが、悪事が終わった後の生きていく

希望の光となるのでしょうか?

私にはそれだけには終わらない感じがします。

人間誰しも、悪を冒す可能性やきっかけがある。

だから、ジョバンニの行いを反面教師として

自分たちも気を付けましょうと・・・そんな

教訓にも聞こえるのです。そんな合唱にも聞こえます。

この終章では、各人がこれからどうしていくかの決意も

示されています。

エルヴィーラは隠遁(修道院?)の道へ。

ポポレッロは、新しい主人を探す旅へ。

アンナはふたりの死のショックを静める時間が欲しいと懇願。

オッタ―ヴィアは、そんなアンナを待つと。

マゼットとツェルリーナは、ふたりでゆっくりと家で

過ごすと。

ジョバンニによって引き起こされた自分たちの人生に

軌道修正を加える旅に出ていく面々。

人と人が関わっていく中で、繰り広げらるトラブルには、

修正力が必要だといわんばかり。私たちの人生は、

そんな営みの繰り返しなのよと言いたげなのが私には

伝わってきました。

人と人との組み合わせは無限で多種多様。それが人生!

それが人間! だとモーツァルトは表現したいのでは?

だから、人生は面白く苦しい。

時には、行き過ぎれば天が成敗してしてくれる天罰も

加わって、モーツァルトの天を神を恐れる宗教観も

伝わってきます。

それくらい、これからも私たちの生きざまはドタバタの

繰り返しなのでしょうか?

 

 


ブラームスとフルトべングラー

2017-01-07 15:05:27 | 音楽の魅力

ブラームス

19世紀終盤に活躍したドイツ人作曲家。

師であるシューマンの妻、クララのことを思慕し、

思いも告げられず、プラトニックラブに終始した

不器用できまじめなこだわりの天才。

フルトベングラー

20世紀を代表するドイツ人指揮者。カラヤンの先輩として

数々の名演を披露。主にベルリンフィルとの共演が秀逸。

 

このふたりのドイツ人が織りなす交響曲は聴きごたえがあります。

知識の浅い私が感想を書くのは恐縮ですが、演奏芸術として、

深く、暗く、時に薄く光明が差し込みながら消え、また悲哀があり、

最後は死へ。そんな人生観と人間観がフルトべングラーのタクトから

くっきりと浮かび上がってきます。

特に、交響曲4番には、はまりそうです。

フルトべングラーは、ブラームスの人間性を相当研究している

のではないかと感じられるところが、この4番を聴いて随所に、

いや全編を通して伝わってきます。

ブラームスが自作のシンフォニーで一番好きだという4番。

それを見事に演出し、ベルリンフィルに演じ切らせている

フルトべングラーの洞察力と演出力に感銘を受けました。

指揮者は、人間として舞台監督にも通じる表現者なのですね。

そこには、演奏技術のベースがあってのことですが。それに

ついていけるベルリンフィルも、やはり凄いオケです。

それにしても、このふたりの巨匠のマッチングは見事に

はまっています。フルトべングラーの表現方法が、

ブラームスの思っていたこと、考えていたことに

ドンピシャなんでしょうか? それはもちろん不明。

フルト(略称)は、ブラームスの書いた原譜どおりではなく、

翻訳本でいう超訳を加えていると思いますが・・・。

フルトの特徴は、音量の漸増と漸減それにテンポの変化を

ふんだんに取り入れて表現する点でしょう。

その分、このブラームスのような重厚な音楽には、深みと

味わいが出ている気がします。

飽きないんです。変化が豊かだから。

外面は忍耐強さを装っていたブラームス(?)だからこそ、

内面の心の揺れ動きはかなり激しい。そんな人間の内面の

秘密をフルトは見事に音で暴いて見せています。

特に、第1楽章と終楽章の第4は聴きどころが満載。

終楽章などは、フルトの特徴がほとんど出ているといっても

いいのでは?

前述したボリュームとテンポの変化です。この変化が

わざとらしくなく必然のように聴こえてくるのが

素晴らしいです。それくらいスコアを読み込み、ブラームスの

表現したい内面を理解した上で演奏をコントロールしている

のでしょう。部分的にはオケが歌っているように聞こえる

ところもあります。

それに、音と音をつなぐレガートもあり、音と音を歯切れよく

切るピッチカートのような部分もあり(ここは、カラヤンと

表現方法が異なる)、間をとることろもあり、とにかく

表現が複雑で多様なんです。何度も書きますが、シンプル

イズベストとは対極をいく手法ですね。

それくらいひとりの人生って複雑なんだと言わんばかり。

実に面白く、感動的です。

その時の自分の精神状態によっては、この第4楽章は、

涙が出てきそうな場面もあります。それくらい人間を

表現していると、強く感じます。

「レクイエム(鎮魂歌)」も作っているブラームス。

キリスト教徒としての宗教観もあるのでしょうね。

でも、同じくレクイエムを作ったモーツァルトや

フォーレとは、また違う死生観の持ち主では??

カソリックとプロテスタントの違いもありますから。

そのあたりは、無宗教の私には理解しにくい

ところであります。

 

 

 


生まれ変わったウィーンニューイヤーコンサート2017

2017-01-02 12:51:14 | 音楽の魅力

とにかく楽しいコンサートでした!

2017年ウィーンの楽友教会で行われた

定例のコンサート。

史上最年少のグスタボ・デュダメルが登壇し、

タクトを動かした瞬間、何か違う空気が

漂いました。デュダメルとは何者?

最初、こんな若い初指揮者が、ウィーンフィルの

伝統的な演奏会で受け入れられるのかという

懐疑的な思いも、最初の5曲で簡単に

打ち破られたのです。

彼は、既にウィーンフィルと50回も協演し、

絶大なる信頼を得ている新進気鋭、いや

中堅の指揮者なのです。南米のべレズエラ、

エル・システマという国家が資金援助をする

音楽教育で音楽を覚え、経験を積み、

弱冠30歳代中盤で世界最高峰のオケを

指揮する名誉を与えられたのでした。

楽しい演奏会となったのは、登壇して終演するまでず~っと

スマイル、スマイル!! だけでなく、乗ってくると、

体全体で気持ちを表現しながら、オケを乗せる。

指揮台からジャンプしそうになるくらい、全身を

揺らすことも何度もありました。

彼は音楽に対してどんな哲学を持っているんのか?

そんな素朴な疑問が浮かんできました。

ラテンの国に生まれラテンの国家で音楽教育を

受けたので、「音楽は喜びを表現するもの。

その喜びを楽団員や聴衆と分け合うもの」そんな

楽しい哲学を持っているのは間違いなさそうです。

特に新年のお祝い演奏会ということ、ヨハン・シュトラウスを

中心にしたワルツなどの楽しさ、明るさ、愉快さを

ふんだんに表現しようとする姿勢がありありとうかがえました。

ここ10年間で、最も愉快な演奏会だったのではないでしょうか?

あまりの変化に、ウィーンの聴衆も内心戸惑うことも

あったのは? と感じました。

時代は変化しているようです。

史上最年少の指揮者。往年の名コンサートマスター、キュヘル氏の

引退。そして、今回の愉快な演奏会。

実に素晴らしい変化であり、これからがもっと楽しみになった

演奏会だったと強く感じました。

まるで、ひらめきの天才が音楽を楽しませてくれるかのような

コンサートでした。エンターテイナーの

モーツァルトが指揮しているのかと

錯覚してしまいました。

もしそうだとしたら、現在のサリエリは、舞台袖で

どんな思いで、今回の指揮を見ていたのでしょうか?

(おっと、これは書き過ぎでした)

でも、もしかしたら、フルトベングラ―からカラヤンへと

主役がバトンタッチされた時代変化に似ているかもしれません

次世代の指揮者の誕生です。

今回に限り(?)、クラシック音楽の敷居の高さは

かなり低くなった気がします。

それは、感性で楽しめる音楽に完全に切り替えられた

ためです。デュドメルがシュトラウス音楽の

タクトを振るのにふさわしい哲学と感性の持ち主

なのが一番の誘因でしょう。

来年は、イタリアのリカルド・ムーティ

タクトを振る予定だとか。ムーティも

歯切れのよい、ワルツなどは特に聞かせどころを

テンポアップした曲想にするのが

得意なマエストロです。

おそらく、母国イタリアの大先輩トスカニーニや、

巨匠カラヤンの影響をかなり受けているのでは、

と感じています。

これからのウィーンフィル・ニューイヤー

コンサートが良き伝統を維持しつつ、

新たな風を取り入れて進化し続けてくれたら

いいなぁ、なんていうのが今回の感想です。