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極東極楽 ごくとうごくらく

豊饒なセカンドライフを求め大還暦までの旅日記

ビールの最初の一口に赤矢柄

2010年03月01日 | 時事書評


この家に 二つの苦あり 脈絡を 失った母 見つけられぬ子



【絶望した錬金術師】


 肝心なのはそれだけ。あとは杯を傾けるほど
に刺激がなくなり、粘っこい生ぬるさと、白け
た満腹しかやってこない。最後に残るのはたぶ
ん、虚勢もこれで終わりという幻滅……。
 とにかく最初の一口だ。一口だって? 口の
前からもう始まっているじやないか。まずは唇
の上をあの金色の泡と、その泡で増幅された爽
快感が通り過ぎ、やがて苦みで濾過された幸福
がゆっくりと口のなかに広がる。最初の一口な
のに、いかにも長く感じられる! 本能的な渇
きを装いつつ、一気に飲む。じつはすべてが定
められているのだ。理想的な最初の量は多すぎ
ても少なすぎてもだめ、即座に至福を強調する
こと、ふうとため息をついたり、舌を鳴らした
り、あるいはただ無言というのも悪くない。あ
たかも快楽が無限に開かれているかのごとき偽
りの感覚……。と同時に、すでにわかっている
のだ。一番おいしいところはもう終った。グラ
スを置くにしても、ことさら少し遠くに離して、
小さな扱い収り紙のコースターの上に置く。蜂
蜜まがいの、冷えた太陽みたいな色を味わう。
あくまでも分別くさく、我慢強い儀式を通じて、
生まれると同時に消え去ってゆく奇蹟を掌握し
てみたいのだ。グラスの内側に、自分が注文し
たビールと寸分遠わぬものが確認できればよし。
だが入れ物と中身が尋ね合い、呼べども応えぬ
こともあり、そのときはもう何も増幅されない
だろう。できれば純粋な黄金の秘密を守り、化
学式のなかに封じ込めておきたい。でも、外光
にきらめく小さな白いテーブルを前にして、な
すすべもなく絶望した錬金術師は、ただ見かけ
だけ威勢よくビールの杯を重ねたあげく、喜び
を陰らせるだけ。それは苦い幸福、最初の一ロ
を忘れるために飲むもの。

          『ビールの最初の一口 
       とその他のささやかな楽しみ』
          フィリップ・ドレルム
               高橋 啓訳


最後の「なすすべもなく絶望した錬金術師は、
ただ見かけだけ威勢よくビールの杯を重ねたあ
げく、喜びを陰らせるだけ。それは苦い幸福、
最初の一ロを忘れるために飲むもの」。いいで
すねこの最後のところ。翻訳の良さなんでしょ
う。ビールメーカにこのCMを是非制作させた
いところだ。還暦をこえたばかりのわたしには
この一節に酔い痺れた。あなたは小さな宝石を
手に入れた。おめでとう! あなたは幸福を再
発見する
旅に出発するとのウエスト・フランス
の寸評に肯く。

 Philippe Delerm

ドレルム,フィリップ(Delerm,Philippe)1950年
生まれ。中学校教師としてサッカー、演劇など
を指導しながら執筆活動にいそしむ。『ビール
の最初の一口とその他のささやかな楽しみ』(
1997)が大ベストセラーになり、以後、彼の書
くものはベストセラーの常連になる。日常のそ
れとない、ささやかなものへのやさしい眼差し
は彼の独壇場。他の何人かの作家とともに「小
事物派」という呼称さえある。しかし、ノルマ
ンディーの田園地帯に住みながら、実は本質的
に「都市の作家」であるというところが、彼の
人気の秘密であり、ユニークなところ... との
紹介(『しあわせの森をさがして』)も納得さ
せるものでした。ところで、息子は映画監督じ
ゃなかったっけ?


 Peter Mayle

南仏プロヴァンスの風景

バタイユの本を探しに市立図書館に立ち寄った
ものの空振り。フィリップ・ドレルムとピータ
ー・メイルを半ばやけくそに借りることになっ
たが、その衝動は収まらず数冊借りることに。
そのメイルの小説を映画化した『プロヴァンス
の贈りもの』は(A Good Year;2006年のアメリ
カ合衆国の映画)、フランス南部プロヴァンス
にぶどう農園を所有しているあのアップル社CM
『1984
リドリー・スコット監督が「ブティ
ック・ワイン」(メジャーな市場では全く無名
であるにも関わらず、その高品質により高値で
取引される希少生産ワインといわれる)の噂話
を30年来の友人であるピーター・メイルに持ち
かけたところ、メイルがその話を元に小説を執
筆し、スコットが映画化することとなったとい
われる(原題の「A Good Year」はワイン作りに
おける「当たり年」の意)。



 春が来て、節くれ立った黒い手が空をつかむ
ような格好で並んでいた畑の葡萄がうっすらと
緑に芽吹く頃になると、ここかしこに、ひこば
えが生い出るように人が姿を見せはじめる。彼
らは道端の石にじっと腰をおろし、あるいは、
辛うじて体重を支えるだけで、いたって坐り心
地の悪そうな新案特許の折畳椅子にかけて、イ
ーゼルを立て、傍らに絵筆やクレヨンでいっぱ
いの胴乱を置いている。帽子をかぶってしかつ
めらしく眉を寄せているところはみな同じであ
る。遠くの景色に魂を奪われているかに見える
彼らは、やがて、意を決したふうに筆を湿し、
キャンヴァスの上にプロヴァンスを写し取りに
かかる。

  絵描きは私の心を捉えて放さない。何よりも
その才能には敬服を禁じ得ない。傍目には、彼
らはいとも気楽に筆を動かしているように映る
けれど、絵を描くというのがそんな生易しいも
のではないことを私はよく知っている。が、そ
れ以上に私が興味を覚えるのは、彼らが描く対
象を自分の目で選び、その素材を独自の世界観
に従って画布の上に再配置する過程である。だ
から私は絵を描いている人を見かけると、邪魔
しないように注意しながら、そっと背後に忍び
寄り、肩越しに覗かずにはいられない。まさし
く盗視であって、制作者のプライヴァシーを侵
す恥ずべき行為であることはわかっている。わ
かっているが、止められない。画家がそこに何
を見ているか、彼の描くプロヴァンスがいささ
かなりと、私の知っているプロバンスを再現し
ているかどうか、大いに関心のあるところだ。

        『プロヴァンスの人と風景』
             ピータ・メイル
      マーガレット・ロクストン=絵
               池 央耿=訳                       

  Margaret Loxton

この小説にはマーガレット・ロクストンの絵な
しに成り立たない。いや、彼女の絵に随筆が書
かれているのだと錯覚しても可笑しくないし、
池央耿の翻訳なくしても成り立たない。そう、
絵が中心に展開していることに気づくのに時間
はかからない。


                   「リュペロンの三婦人」
                Three Ladies of the Luberon

プロヴァンスの男どもは男尊女卑の思想に凝り固
まっている、とよく言われる。いったい、どこか
らそんな定説が生まれたのか、首を傾げずにはい
られない。私の見るところ、どこの家でも財布を
握っているのは奥方である。主婦たちは家事を切
り盛りし、家計簿をつけ、金のつかい道を決め、
細々とした日々の用をこなす。亭主たちは日がな
一日カフエにくすぶって天下国家を論じている。
そうした用事の合間にプロヴァンスの主婦たちは、
ちょうどこの絵のように、道端に足を止めてはお
互いに、良き伴侶を選んだことを祝福し合う。と

少なくとも、私は思いたい


         『プロヴァンスの人と風景』
              ピータ・メイル
       マーガレット・ロクストン=絵
                池 央耿=訳 


  「プロヴァンスの贈りもの」




【珍魚アカヤガラ】

赤矢柄・赤魚:cornetfish [学名:Fistularia com-
mersonii
]硬骨魚綱ヨウジウオ目ヤガラ科に属す
る海水魚。体は細長くて縦扁し吻は管状。近縁
のアオヤガラとは、目と目の間が平たく、体表
が粗雑でなく、赤褐色である点で異なる。全長
1.5メートルになる。本州中部以南、太平洋、
インド洋西部の熱帯から温帯にかけて分布する。
沖合いの深みにすみ、底引網で漁獲される。味
がよくて、刺身、塩焼き、椀種にする。



みためで判断するのもどうかだが、刺身にする
と上品で淡泊でクセがないがくるくる寿司では
お目にかからないほど少ない。毎日、早鮓や熟
鮓の記事を調べるの骨が折れるというか、飽き
てござるでござると来たもんだ。三年に一度滋
賀のどこかで「熟鮓祭り」を定着させたいとは
じめたものここで挫けてはだめかと思い直した。
「米と魚」の食文化のコアをめざし頑張ろう。



コメント
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