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宇治巡礼10 浄妙寺跡

2020年08月07日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 宇治市の木幡地区は、かつては藤原氏の墓所として知られ、いまも「宇治三七陵」と呼ばれる陵墓が広い範囲にわたって散在しています。藤原摂関家の代々、例えば藤原兼家や道長、頼通らも葬られていますが、現在では所在地が分からなくなっていて、どの陵墓が誰の墓であるかが不明になってしまっています。

 かつて、藤原道長が、父兼家とたびたび木幡の先祖の墓所を尋ねた際に、古い塚が並んでいるものの仏事供養も行われずに荒廃していて、誰の墓かも分からなくなっているので思わず涙してしまった、と日記「御堂関白記」に述べています。
 似たような経験を、道長のライバルであった藤原伊周もしています。彼の父藤原道隆の卒塔婆を建てて葬った場所へ一年後に詣でたところ、沢山の塚や卒塔婆があったので、父の墓がどれなのか分からなくなってしまったそうです。

 当時の貴族は「穢れ」を忌み嫌う傾向があり、動物の死骸を道端で見ただけでも「穢れた」と認識して仕事を休むのが常でした。親や親族の死体でさえ「穢れ」の対象であり、葬儀や埋葬に直接携わることが無かったのですから、墓が荒れ放題になる、親の墓の位置が分からなくなる、というのは当然でした。

 ですが、さすがに藤原道長はこのままではいけないと考えたのでしょう。荒れ放題の宇治陵に眠る先祖代々の霊を鎮め、かつ一門子孫の人々を極楽に引導すべく、一堂を建立して三昧を修めることを決めました。その一堂というのが、いまの木幡小学校の位置にあった浄妙寺でした。
 その浄妙寺は、上図のごとく、いまは遺跡として校地の地下に保存されており、木幡小学校の南側通用口の傍らに標柱が建てられています。

 

 浄妙寺跡の遺跡案内板は、木幡小学校の西通用口の脇に立てられています。創建は寛弘四年(1007)で、本堂にあたる三昧堂のほかに多宝塔、築地塀などがあったことが発掘調査によって明らかになっています。

 最近の発掘は平成22年に実施されましたが、その現地説明会には私も行きました。このときの検出遺構は築地塀や南側の旧堂ノ川の川床跡で、寺の南限が確定されました。現地の字名が「ジョウメンジ」であるのも、浄妙寺の読み「ジョウミョウジ」の名残です。

 

 木幡小学校の西通用口の脇に立てられる遺跡案内板は、御覧のように風雨にさらされて褪せてしまい、読みづらくなっています。最近の発掘調査の成果も反映されていませんので、リニューアルが望まれます。

 

 宇治市立源氏物語ミュージアムにある、浄妙寺の復元想像図です。昭和42年の発掘調査で検出された三昧堂の遺構をもとにして描かれています。藤原氏の葬送地である宇治三七陵のほぼ中央に位置しており、藤原道長が建立した寺としては最初の例となります。

 藤原道長の寺といえば、豪華絢爛を極めた法成寺のことがよく挙げられますが、浄妙寺はそれ以前に建てられた藤原摂関家の氏寺でありました。権力を手にした道長が、一門をまとめてゆくうえでの精神的支柱および宗教的象徴として建立し、宇治三七陵の墓守寺としての性格も担っていたものと思われます。

 浄妙寺は、室町時代の寛正三年(1462)の土一揆で焼かれて廃絶しました。もし現在に残っていれば、藤原頼通の創建した平等院とともに、摂関家の記念塔として国宝に指定され観光地となっていたのは間違いありません。

 


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