気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

伯耆大山 (下)

2015年05月25日 | 観聞日記

 大山寺門前町に戻りました。これで大山の社寺エリア散策は終わりましたので、休憩と食事をすることにしました。まずは散策で汗ばんだ体を洗うべく、門前町の温泉施設「豪円湯院」に立ち寄りました。

 ここの温泉は、大山の冠雪が長い時間を経て地下に浸透、地下で浄化され、1200メートルの深さから温泉として湧き出たものです。全国の天然温泉の中でも酸化還元電位の値が非常に低いことで知られ、天然で-320mVの数字は日本最大級といわれます。その効果によって疲労回復が期待できるとありましたが、その通り、湯に浸かっているうちに体が軽くなっていきました。湯上りには、大山の白バラバニラ牛乳がピッタリ合います。その味わいは最高です。
 「豪円湯院」の公式サイトはこちら


 「豪円湯院」の向かいには足湯の施設もあります。登山客が帰途によく利用しているそうです。「豪円湯院」と同じ湯ですが、こちらは無料です。


 近くの蕎麦屋さんで、大山蕎麦をいただきました。山陰地方には蕎麦どころが多いですが、鳥取県では倉吉の打吹蕎麦とこちらの大山蕎麦がよく知られています。大山麓のグルメのナンバーワンが蕎麦なので、お店もあちこちにあります。普通の蕎麦と異なり、実の甘皮までを挽き込む製法によって独特の黒い色と素朴な風味を引き出している点に特徴があります。岡山県側でも「蒜山蕎麦」というのがありますが、材料の蕎麦を大山の麓で栽培している点は同じです。

 鳥取県に住んでいた時期、大山には30回ほど行きましたが、北の大山町や琴浦町あたりから登った際の食事は大山蕎麦、南の蒜山から登った場合は蒜山焼きそばか蒜山バイキング、というのがお決まりのコースでした。今回もそれでいく積りでした。


 大山寺観光駐車場に戻りました。大山の北壁が北東から望まれて霊峰の風格を漂わせています。


 駐車場から出てすぐ地蔵石仏の立つ分岐路「地蔵別れ」に着きます。左に進めば「大山パークウェイ」の続きですが、今回は右折して大山町へと北進しました。なだらかに広がる裾野の原生林の緑のトンネルの中を走り、やがて広い田園地帯に出ました。あちこちに上図のような風力発電の巨大風車が見えてまいりました。

 大山の北麓にはこのような巨大風車が計41基も分布し、大山からの強いおろし風を利用して風力発電を行っています。このうちの15基が大山町にあり、町が管理運営する高田工業団地の巨大風車と、日本風力開発「大山ウインドファーム」のそれとに分かれます。なかでも高田工業団地にある風車は全長118.5メートルの大きさで、「太空海(たくみ)号」の名で呼ばれます。


 まもなく「仁王堂公園」に着きました。児童遊園地や交流広場をともなった地域の公園施設の一種ですが、ここには大山町のシンボルともなっている巨大な大山カラス天狗の銅像があります。
 カラス天狗は、霊峰大山の神の仮の姿ともされ、大山にて修行して神通力を得た山伏たちのパワーをシンボライズしたものともされています。古来より多くの伝説が語り継がれています。
 「仁王堂公園」の案内情報はこちら。大山カラス天狗伝説の紹介はこちら


 続いて、鳥取県のみならず山陰地域を代表する弥生時代の遺跡「妻木晩田(むきばんだ)遺跡」に行きました。大山麓には数多くの縄文、弥生時代の遺跡が点在しますが、こちらの遺跡は遺跡の規模や質が日本最大級で、一帯は国史跡に指定されています。
 私が鳥取に住んでいた時期の平成7年に発見されて発掘が続けられ、20年を経た現在も進行中です。範囲が156ヘクタールと広大なうえ、これまでに竪穴式住居跡420棟以上、掘立柱建物跡500棟以上、四隅突出型墳丘墓などの墳墓34基を検出しましたが、それでまだ全体のおよそ1/10の範囲での成果に過ぎません。全容解明までにあと50年はかかるだろう、などと聞きましたが、そんな凄い遺跡は日本中にそうそうあるものではありません。
 現在、発掘調査が完了した地区は、御覧のように竪穴式住居などが復元されて歴史公園になっています。こういう場所が大好きなホシノなので、竪穴式住居の一つ一つに入り込んで弥生時代のムードに浸ったりして楽しみました。


 ガイダンス施設の竪穴式住居復元レプリカや出土資料も楽しく見学しました。こうした遺跡や遺物に直接触れて歴史を追体験することが、日本と日本人の本当の歴史を学んで理解する一番の近道です。ホシノは全国各地でこうした遺跡などを積極的に見て回っていますが、それによって構築される歴史観やイメージの全体像は、一般的な教科書や歴史本の記述とはちょっと異なっていることが多いです。
 言い換えると、日本の考古学や歴史学の近年の目覚ましい進展や成果などが、まだまだ一般的な教科書や歴史本に反映されていない、ということです。時代別にみると、その傾向が最も顕著なのが、中世戦国期の歴史であるように思います。


 遺跡公園として整備された範囲だけでも広大なので、今回は竪穴式住居群のエリアである妻木山地区と、四隅突出型墳丘墓などの墳墓が並ぶ洞ノ原地区だけに絞りました。
 上図は洞ノ原地区の丘陵地で、私の背後に見える尾根先端部にも高床式倉庫などの建物が復元されています。遠くに望まれる海岸線は弓ヶ浜です。

 ここの遺構で興味深いのは、四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)という山陰地域独特の墳墓形式です。弥生時代の中期以降ぐらいに広島県の三次エリアで発祥したとされ、吉備や山陰、北陸の各地方に広がっていったようです。近畿地方などに見られる方形墳丘墓の四隅がヒトデのように飛び出した特異な形が特徴で、その突出部に葺石や小石を施すケースも多いです。現在は約90基ほどが確認されていますが、数の上では鳥取県や島根県に多く分布しています。地域文化の特徴がよく表れた一例と言えますが、こうした特色ある遺跡や遺物に触れることで、日本の歴史の多様さ、奥深さが実感出来ます。
 「妻木晩田遺跡」の案内情報はこちら


 「妻木晩田遺跡」の次に、近くにある「伯耆古代の丘公園」内にある「上淀白鳳の丘展示館」に行きました。私が鳥取県に住んでいた時期には「淀江町歴史民俗資料館」でしたが、近くの上淀廃寺の発見と国史跡指定によって遺跡公園施設としての再整備が図られ、近年にリニューアルして立派な展示館に生まれ変わりました。
 「上淀白鳳の丘展示館」の公式サイトはこちら


 この展示館の目玉は、上淀廃寺金堂の実物大復元展示です。法隆寺金堂壁画に次ぐ白鳳期の壁画遺品と独特の伽藍配置で全国的に有名になった上淀廃寺の、金堂の建物と内陣の仏像を、多数の遺物から推定的に復元したものです。上図のように、金堂の建物の一層目部分を、遺構と同規模で立体的に復元してありますが、このような展示施設は、日本でもここだけです。


 さらに凄いのは、内陣の仏像を、発掘で検出された塑像の断片多数から推定的に復元し、実物大の大きさで実験的に再現した点です。奈良の古代寺院に現存する仏像などを参考にして同時期の様式にて表していますが、地方の古代寺院の安置仏像を実物大のスケールで三尊とも推定復元した事例はここだけなので、それだけでも一見の価値があります。
 私は古代の仏教美術史を大学で専攻し、古代寺院の歴史にも興味を持って全国各地の遺跡を見に行きましたので、こういう復元展示があると、どうしても見に行きたくなってしまいます。


 壁画断片の出土状況を再現したレプリカです。平成3年に発見された当時は大騒ぎとなり、連日新聞の大一面を飾りました。その発掘調査が進むにつれて遺構や遺物が次々に検出され、その独特の寺観が話題となって早々と国史跡に指定されました。
 私が鳥取県に移住したのは、その発掘フィーバーが一段落した時期でしたが、「因泊古代寺院研究会」の見学活動で初めて訪れた時は、まだ発掘された生の遺構が見学出来て、とても興奮しました。


 その懐かしい上淀廃寺跡へ行きました。いまでは発掘も完了して一帯は復元整備され、遺跡公園になっています。


 現地にある案内板の復元図です。金堂の東に三重塔が二基並ぶという、他に例を見ない変わった伽藍配置ですが、計画ではさらにもう一基の三重塔が計画されていたようなので、最終的には三基の塔が並ぶという、これまた独特の景観になったはずです。奈良や京都の先進的な古代寺院にも見られない独特のプランが、どうやってこの地に実現されたのかは分かっていませんが、古代日本の仏教文化に多様な流れや広がりがあったことは理解出来ます。


 復元整備された金堂の基壇です。先に見学した建物の復元展示は、この基壇上の建築を同規模で再現したものです。基壇外面は瓦にて構築されていますが、こうした形式を瓦積み基壇といい、さらにその周囲に石列を設置するので、全体としては二重基壇の形です。これは朝鮮半島の古代の百済の寺院に多く見られる様式で、百済系の渡来人集団の関与をうかがわせます。


 こちらは三基の三重塔のうちの中塔の基壇遺構レプリカです。実際の遺構は地中に埋め戻されて保存され、その上に盛り土をして、発掘当時の遺構をそのままレプリカで再現して展示しています。ここまで積極的に取り組んだ遺跡展示法は、全国的にもあまり類例が無く、鳥取県の文化財行政のレベルの高さを示しています。
 発掘当時の生の状態を追体験出来るわけですので、下手な復元展示よりも分かり易いし、何よりも説得力があると思います。


 伽藍の前庭は、石敷きになっており、現在はそれも復元してあります。奈良の飛鳥寺などに類似の石敷き遺構が発見されていますが、地面を石敷きにするというのも朝鮮半島の仏教文化の要素の一つなので、石敷き遺構のある古代寺院には、渡来人集団の技術が生かされていると言えます。ただ、地方の古代寺院でこのような石敷きが検出された例はまだ少なく、私が実見した事例は岐阜県の杉崎廃寺ぐらいです。

 しかし、20年も経てば、遺跡の風景も完全に変わってしまうものですね。畑の中に生々しい発掘地表面が現れていただけの景色が、かつての私の見た上淀廃寺の全てだったのですが、いまでは歴史公園として広い範囲にわたって整備され、あちこち歩き回って楽しめるようになっています。懐かしいと言うより、初めて訪れた遺跡公園のようでした。
 上淀廃寺遺跡の紹介情報はこちら


 距離的には泊まりがけで行くのが相応しい地域ですが、無謀にも日帰りで強行しましたので、上淀廃寺遺跡の見学をラストにして、三時には帰途に着きました。淀江から米子インターまで移動し、米子道の蒜山サービスエリアでいったん休みました。
 大山は、すでに遠くになっていました。が、今回訪れた場所の多くが、懐かしい景色のままでした。鳥取市から歴史的好奇心に胸を弾ませて何度も大山の麓に通った日々を思い出しました。


 いい山容です。見飽きることがありません。私の楽しかった山陰滞在時代の景色を象徴する霊峰なので、とにかく色んな感慨が湧きあがってまいります。
 それで、自然にこう思いました。近いうちにまた参りますよ、と。 (了)

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