那珂湊駅から反射炉の建つ丘までは、歩いて10分もかかりません。駅前からも見えるので、位置が明確で道に迷うこともありませんでした。今回は車道からそれて丘に近い路地道を迂回し、付近の地形を確かめました。
反射炉を含む史跡公園の入り口に建つ、山上門です。水戸藩小石川邸正門の右側に設けられた勅使門で、後に小石川邸の山上に移されたのでこの名があります。水戸藩関連の建築遺構としては、旧水戸城本丸城門とならぶ貴重なものです。
門をくぐって、吾妻台と呼ばれた丘に登りました。前回の訪問時には雨天でよく見渡せなかった景色が広がっていました。那珂川に架かる赤い湊橋もよく望まれました。
青空に白く輝いてそびえる二基の反射炉です。水戸藩が建設した金属溶解炉で、大砲鋳造を目的として建造され、カノン砲など数門を鋳造しましたが、幕末の天狗党の乱の際に破壊されました。
現在の建物は、昭和12年12月に復元された原寸模型です。模型ではあるものの、ほぼ原型どおりであるため、再興建築に近いかたちです。
現地に保存展示されているカノン砲を見るホシノ。レプリカなのか本物なのか分かりませんでしたが、あまり風化磨滅も錆化も見られないので、レプリカのように感じられました。
たとえレプリカであっても、大砲は大砲です。ちゃんと金属で出来てますから重厚な存在感と独特の肌触りをもっています。秋山優花里ばりに頬をすりつけてみましたが、冷たかったです。(アホかお前は)
高い反射炉の外観を見上げるホシノ。復元模型とはいうものの、その建材には、破壊された実物の煉瓦片なども再利用していますから、ただの模型ではありません。
反射炉の建設には大量の煉瓦が必要であったため、付近にこのような煉瓦焼成窯が建造されました。現在のものはコンクリート製の復元模型ですが、これも実物大であって内部構造もきちんと再現されています。
丘から降りて山上門のところに戻りました。
移築建築の常で、痛みやすい屋根裏の構造材などは大部分が移築の際に交換されたようです。オリジナルのまま移築することはまず有り得ず、移築の際に修理や部材交換を行なうのが普通です。そうしないと、木造建築が長持ちしません。ですが、妻飾や柱の虹梁などはオリジナルのままのようです。
部材のほぞ穴があちこちに残っています。移築前の構造がある程度推定出来ますが、現在の土塀と接する面にもほぞ穴が見えるので、小石川邸に在った頃は両側が板塀であった可能性が高いです。勅使門であったそうなので、それ相応の調度と意匠を凝らして格式ある構えを成していたものと想像されます。
瓦は痛みやすいので、移築などの際に取り換えられることが多いです。旧藩時代の瓦が再利用されているのはごく一部ですが、上図のように水戸葵をあしらった軒丸瓦が残っています。
門の大棟の両端を締める鬼瓦にも、水戸葵の紋が表されています。門建築の由来を如実に物語る、貴重なオリジナル瓦の一種です。
なかなか立派な門です。このあたりでは江戸期の武家門の建築遺構自体が稀ですので、その価値は際立っています。傾斜地に面した狭い区域に建つので、全容をカメラにおさめるのが難しいです。 (続く)
ということは・・・タイマーで自撮りしたのでしょうか。
本当に、なにしてんだかwヽ(^。^)ノ
反射炉のスケールの大きさと大砲の雰囲気を、自身との比較撮影で示そうと自撮りしてみました。
ですが、大砲の時はどうも笑ってしまって、ああいうバカな写真になりました。くだらない真似を大真面目にやる悪癖はなかなか治りません。わははは。