玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

キリスト教〜正統と異端

2022-05-09 20:24:21 | Weblog
(”ギリシア語版トマス福音書と考えられるものの一部”wikipediaより)

今世界で起きていることを考えるにあたって、キリスト教のことをずっと調べています。
キリスト教。
キリスト教神学。
調べれば調べるほど、様々な議論がされており、同じキリスト教徒であっても、考え方が真逆であったりと、その歴史はその解釈にあたっての正統と異端の歴史でもあります。特にキリスト教成立のはじめの頃、原始キリスト教においては。

要はイエス・キリストの存在。
そのイエスについてどう考えるかが、正統と異端を大きく分けたようです。

大雑把にいって正統派の考えはイエスはあくまでも父なる神が人間に受肉した唯一の存在であり、神でもあり、人でもあり、イエス以外にはそのような存在は歴史上現れたことがなく、ただイエスを通じてのみ、我々人間は神の存在にふれることができるというもの。

その逆に異端派は、誰でもがイエスのような存在になれる可能性があるというもの。そのために道徳的に正しく生きたり、修行したりして、自己の内面性を深く探求することで、自己の内面にイエスが語る父なる神をみることできる、一体であることをわかることできるとするもの。

イエスという神と一体となった存在をただイエスだけでしか起きない特殊な出来事として捉えるか、いやそうではなく、イエスを模範として、実は誰でもがイエスのようになれるのだと捉える、この違いは大きい。

原始キリスト教時代には、これらの考えで大きく二分するような動きがあり、異端派とされるものの中ではトマスによる福音書というのが代表的な福音書として伝えられるそうです。結局歴史は正統派の考えが主流となり、ローマ皇帝のコンスタンティヌスのキリスト教改宗がその後の歴史を決定づけたとも言われています。

イエスという存在を唯一の存在とし、信仰する。その信仰を持った人たちでコミュニティをつくり、社会ができ、世界が出来ていったこと。その信仰を持つという特別性により、世界は一部の特別な人たちで動くようになったとみることもできます。というよりもその影響力の凄まじさを感じます。仮に異端派とされた人たちが正統となり、世界を作っていったならどうなっていたのでしょうか。誰でもがイエスのような人間になれるという考えはどこか東洋的な発想に似ているとも感じます。

とにかくキリスト教の歴史は深い。あまりにも種々様々なことが議論されており、これほどまでに世界に影響を与えた、もしくは世界を作っていったその背景をもっと考えていきたい。今は異端とされてしまった福音書に興味が湧いています。
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