玄語

玄音の弟玄です。日々感じている事、考えている事を語っていきます。そんな弟玄が語る”玄語”です。よろしく。

悪魔のささやき

2017-11-03 10:04:53 | Weblog

(”大アントニオスへの誘惑”wikipediaより)

悪魔は存在する。
人の姿をした悪魔。というよりも、人の中に入って行動している悪魔がいるということ。そこにはどんな動機も理由も存在しない。ただ悪魔が入って、生き血を吸うようにしてエネルギーを吸い取って存在する化け物がいるということ。そうしないと存在できない悪魔がいるとうことか。

餌食にされるのは人の良い、真面目で、または真面目に苦しみ、助けを求めている人。人の良さそうな言葉、人の良さそうな雰囲気、人の良さそうな姿にコロッとやられてしまう。悪魔は人間をよくわかっているかのようだ。

ある時から空間がきれいになってきている。その透明さや美しさは空を見ていてもわかるものがある。空間のきれいさにより明らかにされる正体。潜んでいるものが潜みきれなくなってきている。あらゆる事件、事故も潜んでいるものの表面化、現象化であるといえる。

悪魔など存在しない。そうあってほしい。しかし現実に起きている事は悪魔の存在なくしては理解のできないことだらけである。この事を考えるにあたって、精神科医の加賀乙彦さんが書かれた『悪魔のささやき』という新書を思い出しました。精神科医として多くの犯罪者や殺人犯に会い、研究してこられた加賀さん。そういった犯罪者に直接会って驚くのは、どうしてこんな普通の人が、普通に良い人がこんな犯罪を起こせたのだろうかという印象を抱けるということだそうです。そこから様々なやりとりと検証によりわかったのは、この本の帯にある言葉が明確に表します。

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「人は意識と無意識の間の、ふわふわとした心理状態にあるときに、犯罪を犯したり、自殺をしようとしたり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまったりする。その実行への後押しをするのが、「自分ではない者の意志」のような力、すなわち「悪魔のささやき」である―。」
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人はなぜ勉強するのか。歴史は魔術の時代から科学の時代へとどんどん展開してきたのはなぜなのか。勉強するという事は理性的になることでもある。科学への道は真理探究の道と共に、理性の発達への道でもある。その道を求めてきた理由こそ、ここにあるのかもしれない。つまり、悪魔にやられないということである。理性的な状態とはある意味、冴えている状態であり、聡明な状態である。物事がハッキリした状態である。という事は理性が働く時、悪魔のささやきはない。もしくはささやかれても何かおかしいと気づく。上に書かれている「自分でない者の意志」に惑わされないということである。

要は”考える”人間になっていればやられないという事なのである。自分で考えるために人は勉強するのである。いつしか、受験勉強や資格取得など、功利的な要素が勉強とつなげられて、その本質を失い続けているのが現代である。さらにインスンタントな時代である。何でもかんでもスマホの時代である。何となくインスタを眺め、ツイッターを眺め、フェイスブックを眺め、そう眺め眺めしている内に、餌を探している悪魔はすぐ近くでほくそ笑んでいるかもしれない。眺めているうちはまだ良いのかもしれない。そこに感情が動き、寂しさ、苦しさが重なり、アクションとなった時。悪魔がすっと入り込む。そして手を貸すのである。

宗教、哲学の歴史は実はこの悪魔との戦いの歴史としてみる事も可能である。真理から、神様から外れた状態が悪魔にやられている状態である。そうならない、やられない為に、宗教では教会などの場をつくり、儀式をつくり、言葉を唱え、哲学では認識を変えることで、はまる状態から抜け出し、真実を理解するために考え続けていくのである。


さらに、それでもどうにもならない。そういう時があるのかもしれない。そういう時がくるのかもしれない。このどうにもならない状態に対して、人知を超えて起こることを”救済”というのである。宗教、哲学の悪魔との戦いの帰結にあるのはこの”救済”であるともいえる。ある意味、今の時代はどうにもならない状況にまで切迫し始めており、まことに今ほど”救済”が必要とされる時はないのかもしれない。
コメント
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