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読んだ本の感想と旅行の日記を書いていきます。
後、その他なんかあれば・・・

167冊目:「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」

2018-07-22 19:20:44 | 
総評:★★☆☆☆ 長くわかりにくくきつい。。。
面白い度:★★★☆☆ 面白い所もまあまああり。
読みやすい度:★☆☆☆☆ 読みにくし。
ためになる度:★★★★☆ ためになりそうな箇所あった。
また読みたい度:★★★☆☆ レベルアップしたらまた見返したい



「シュタイナー教育」で有名なルドルフ・シュタイナーさんが霊的世界の知識について書いた本。
きっかけとしては、前からちょいちょい本の名前は聞いてはいたのだが、
漫画「バスタード」を読んでいて「エーテル体」とか「アストラル体」とかの知識が出てきて
そこに出典元して書かれていたので読んでみたのだった。

ちなみにバスタードは絵は上手いがひどい漫画でした。。。


そんなんで、著者のルドルフ・シュタイナーさんは100年以上前に生きていた方で、
お亡くなりになられたのも1925年という、かなり前に生きていた方なのであった。
でもこの方が、今のシュタイナー教育の大元を作り出したとう方であり、霊的世界でも
かなり権威のある人らしく、今でも一部の業界だったり世界ではかなり有名な方なのであった。

ちなみに自分はシュタイナー教育についてはあまり知らないのだが、かの斎藤工とか、いろいろな有名人の方が
シュタイナー教育をする学校を出ているので、そういった所から名前を知っていたりしたのでした。

そんなんで、霊的世界(とここでは呼ばせてもらう)に入る入門書として有名な一冊なのでした。
人間には見えない世界を認知するためのハウトゥー本なので、どんな内容が書かれているのだと
とても楽しみに読んだのだが、しばらく読み進めた結果、内容がかなり難解だった。。。

本当に難しい。こうすれば霊的世界に入門できると書いてはあるのだが、
植物の種を見てそれが成長し植物育っていくビジョンを心の中で思い描くということが入門に必要らしいとかなんとかで
なんか種を用意するのも若干しんどいなと思ってしまった。。。
あとは種をじっと見て植物が成長していく姿を思い描くと書いてあるが、その時の集中している姿を
妻や周りの人が見たらなんと思うか、、、といったちょっと実際にやるのもちょっと難しそうなので、
いろいろな意味で難解だなと思った本でした。

あと面白かったのが、霊界に参入するためには「境域の守護霊」というものと出会う必要があると書いてあり、
境域の守護霊は「小守護霊」と「大守護霊」の2つがあるということだった。
精神世界の修行を続けていると、まずは小守護霊と出会うことになるとのことだが、思わず怖気立つような妖怪じみた醜い存在がそれらしく、
それは自分の内部で作られた、いわば自分自身とも取れる存在らしい。
これはこの先に進むとさらに叡智を呼ばれるものを得ることができるが、カルマなどからも解放され、霊的存在からの庇護が無くなるという、
ちょっと人間の新たなステージに進む上での大きな境界を守っているらしい。

なので、この先に進むためには覚悟がいるらしいとのことだった。もちろんそのステージに立ててない人がこの境界を超えるべきではない。
そしてこの先に進むと人はその他色々な能力も得ることができるとのことだった。

んで大守護霊はさらに上のステージの境域を守っているらしく、ここを超えると聖人レベルの扱いを受けるらしい。
ここまでくると人類の解脱と救済的なことがミッションとして課せられるようである。
なので、キリストとか、マホメットとか、ブッダとかはこの境域を越えた人なのではないかと思う。


まあそんなよく分からないような概念的な内容が色々書いてありました。
なんとか頑張って2ヶ月くらいで読み終えたというのが正直な感想でしょうか?
でもいろいろ重要なことは書いてあるっぽいのでそこは難解だがいろいろタメになりそうなことは書いてありました。

そんなんで、あまり自分の中でまとめきれていないが興味深かった内容についていかに抜粋する。

・秘密知識の伝授を受けるには、それにふさわしい師を方々に探し求めなければならない、と多くの人が信じている。しかし大切なのは次の二点である。第一に、真剣になって超感覚的認識を求める人なら、自分を高次の秘密へ導いてくれる導師を見出すまで、どんな努力も、どんな障害もおそれてはいけないということ。第二には、認識への正しい、まじめな努力が存在するときには、どんな状況の下にあっても、伝授する側がその人を必ず見つけ出してくれるということである。すべての導師が遵守すべき原則によれば、どのような求道者に対しても、その人の受けるにふさわしい知識なら、進んでこれを伝授すべきなのである。しかし受けるに値しない人物に対しては如何程の秘伝も伝授するべきでない、という当然の原則もまた、同様に存在する。

・誰でもよくわきまえておかなければならぬ点が一つある。今日の外面的な文明の中にひたって生きている人が超感覚的な諸世界を認識できるようになるのは非常に困難だということである。余程精力的に自己への働きかけを行うのでなければ、それはほとんど不可能である。物質生活が簡素だった時代には霊的高揚も容易に達成された。崇拝されるべき聖なる対象は世俗的環境の中できわ立って存在していた。ところが批判の時代になると、理想的なものがひきずり下ろされ、人々の心の中で、別の感情が尊敬、畏敬、崇拝、讃仰の代りを占めるようになった。その結果、現在畏敬の感情はますます背後においやられ、日常生活の中では非常にわずかな程度にしか働こうとしていない。だから超感覚的認識を求める人はこの感情を自分で自分の中に生み出す努力を重ねなければならない。そして自分の魂をこの感情で充たさねばならない。このことは勉学によっては達成されない。その達成は生活を通してのみ可能となる。したがって神秘学徒たらんとする人は畏敬の気分に向けて真剣に自己を教育しなければならない。そして讃美と崇敬の対象となりうるものを、環境や体験のいたるところに探し求めねばならない。誰かと出会い、その人の弱点を非難するとき、私は自分で自分の中の高次の認識能力を奪っている。愛を持ってその人の長所に心を向けようと努めるとき、私はこの能力を貯える。

・世界と人生とについて判断する際に、軽蔑したり裁いたり批判したりしようとする自分の態度の中に何がひそんでいるのか。それに注目しようとする瞬間は常にわれわれを高次の認識へ近づけてくれる。そしてこのような瞬間に、われわれが意識の中の世界と人生についての思考内容を讃美、敬意、尊敬で充すような場合、われわれは特に急速な進歩を遂げる。このような瞬間に今まで微睡み続けてきた諸力が目覚める。このことは修行を積んだものによって常に経験されてきた。霊眼はこのことを通して開かれるのである。それまでは見ることのできなかった事物が自分の周囲に見えるようになりはじめる。人はそれまで周囲の世界の一部分しか見えていなかったことを悟りはじめる。自分の前に立ち現れてくる人間が以前とはまったく異なった形姿を示すようになる。この生活規準だけではまだ、たとえば人間のオーラといわれているものを見るようにはならないであろう。そのためにはもっと高度の修行が必要である。しかし高度の修行の段階に至ることは、その前に精力的に畏敬の行を修めておかなければ不可能である。

・目覚めた「高次の人間」は「内なる支配者」となる。彼は確かな手で外的人間の生活を導く。外的人間が主導権をもつ限り、「内なる」人間は外なる人間の奴隷でしかなく、それゆえ自分の力を発揮することができない。怒ったり怒らなかったりすることが自分以外の何かに依存しているとすれば、私は自分自身の主人ではない。私は自分の中に「支配者」をまだ見つけ出していないことになる。自分の内部の力を開発して、外界の印象を自分の定めた仕方で自分に作用させるとき、はじめて私は神秘学徒であるといえる。−−そして真剣にこの力を求めるときにのみ、目標に至ることができる。大切なのは特定の時間内にどのくらい進歩したかではなく、真剣に求めるということだけである。目立った進歩もなしに数年間努力を続けるという場合も稀ではない。しかし絶望せずに平然と努力を続ける人の多くが、まったく突然に「内的な勝利」を獲得してきたのである。

・神秘学は霊耳と霊眼を発達させ、霊光を点じるための手段を教えている。霊的認識のこの手段は三段階に分かれる。一、準備。ここで霊的感覚が開発される。二、開悟。ここで霊光が点じられる。三、霊界参入。ここで高次の霊的存在との交わりが可能になる。

・悟りは非常に単純な行から生じる。この場合にも各人の中に微睡んでいる感情や思考を目覚めさせ、発達させることが問題となる。忍耐力を結集させて、その単純な行を誠実にそして持続的に遂行する人だけに、内部に顕現する光を知覚する能力が与えられる。最初は一定の仕方でさまざまの自然存在を考察することから始める。例えば見事に結晶した透明の石(水晶)の例を取り上げてみよう。まず次のような仕方で注意力のすべてをこの石と動物との比較に集中しようと努める。この集中に際しては、以下に述べる思考内容が生きいきした感情をともなって魂のすべての部分を支配していなければならない。別の思考や感情の混入によって、注意深い観察が乱されてはならない。以下の言葉に思考を集中させる。ー「石には形態があり、動物にも形態がある。石は静かにおのれの場所に留まり続ける。動物は場所を移動する。場所を移動するように、動物を促すのは衝動(欲望)である。動物の形態もこの衝動に従って形成されている。その諸器官はこの衝動にふさわしい在り方をしている。これに対して石の形態は欲望に応じてはいない。欲望をもたぬ力によって形成されている」。われわれがこの思考内容に没頭しつつ、あらゆる注意力を石と動物の観察に集中するとき、われわれの魂の中に二つのまったく相違した感情が生じる。石から或る種の感情が、動物から別の種類の感情が魂に流れてくる。おそらくはじめからそうなることはないであろう。しかし本当に忍耐強くこの行を続けていけば、必ずいつかはこれらの感情が現れてくる筈である。しかしそれには行をいつまでも続けていく忍耐力が必要である。これらの感情が現れても、はじめは観察している間だけしか存続しないかも知れない。しかし後になればそれらはあとまで魂に影響を残し、魂の中で作用し続けるようになる。そうなれば、外敵対象をそのつど観察しなくても、ただそれについて考えるだけで、この二つの感情は常に立ち現れてくる。ーこの感情並びにこれを結びついた思考から、霊魂の知覚器官が作り出される。ー以上の観察に、さらに植物の観察を加えるとき、植物に由来する感情は、その性質や強さの度合いからいって、石と動物とに由来する感情の中間に位置づけられることが理解できる。され、こうして形成された器官は霊眼と呼ばれる。この霊眼によって、魂と霊の色が次第に見えるようになる。「準備段階」として述べた行を修めただけでは、霊界の線や形象が暗い状態に留まっている。「悟り」を通じてその線や形象は明るくなる。

・しかし勇気と自信ことは神秘学の途上で、決して消してはならぬ二つの光である。何度繰り返しても失敗してしまうように思える修行を、さらに進んで忍耐強く続けていかなければ、大きな進歩を遂げることはできない。
 進歩がはっきり認められるずっと以前に、自分が正しい道を歩いているらしいという漠然とした感情が現れる。この感情が現れたら、それを大事に育てなければならない。なぜならこの感情こそが確かな導き手となってくれるからである。高次の認識へ導いてくれるものがまったく特殊で隠秘な手続きであるという信仰は排除されねばならない。よく理解しておくべきなのは、感情と思考という自分に身近な働きから出発しなければならぬということである。ただ通常の場合とは異なる方向に感情や思考を向ける必要がある。この意味で感情と思考に関しては、誰でもまず次のように考えるべきである。ー「私自信の感情や思考には最高の秘密が隠されている。これまで私はそのことにまだ気づくことができなかった」。実際、結局のところすべての行法は次の事実に基づいている。ー人間は常に体と魂と霊の存在として生きている。しかしこの三つのうちはっきり認識できるのは体だけであり、霊や魂ではない。神秘学徒は通常の人間が体を意識するのと同じくらい明瞭にその魂と霊とを意識化しようと努める。
 それゆえ感情と思考を正しい方向へ向けることが問題なのである。そうすれば通常の生活においては見ることのできなかったもののための知覚能力が開発される。

・しかし種を作るという事実を通して、私はそれが無に帰してしまうのではないことを理解する。植物のを無への消滅から護っているもの、それを私は今眼で見ることはできない。ちょうど私が種の中に、今あるこの植物の姿を見ることができなかったように。それ故植物の中には私がこの眼で見ることのできない何かが存在している。この思考内容を私の中でいわば活性化し、私の中のふさわしい感情をそれと結びつけるとき、しばらくしてからふたたび私の魂の中にひとつの力が育ってくる。そしてこの力が新しい直感となる。

・自分の経験の中から、何事かを要求している人物の姿を取り上げ、それを心に思い浮べる。この人物の欲求に注意を向ける。欲求がもっとも生きいきとしており、その人が欲求したものをてに入れられるかどうかを、まだ明らかでないような、そういう時点を思い出すのが一番である。この記憶像にまったく沈潜できるように、考えうる限りの内的平静を自分の魂の中に確保しなければならない。そして集中した表象作用を通して、ひとつの感情を、ちょうど何も見えぬ地平線上に沸き起こる雲魂のように、魂の中に湧き上がらせなねばならない。注意を向ける人間を上述した魂の状態の中で十分に長時間集中的に観察できず、そのため、瞑想が中断されてしまうのが普通である。おそらくは何百回でもむなしい試みをすることになるであろう。しかし忍耐を失ってはならない。多くの試みの後に、観察して人間の魂の状態に相応する感情が自分の魂の中で体験できるようになる。さらにその後しばらくして、自分の魂の中にこの感情を通してひとつの力が生れる。そしてこの力が他人の魂の状態を霊的に直感する力であることに気づくようになる。視界の中に何か光り輝くものが立ち現れる。この光り輝くものは欲求という観察された魂のいとなみのいわゆるアストラル的な姿である。この姿も焔のように感じられる。中心は黄がかった赤、周辺は赤味がかった青もしくは薄紫のように感じられる。このような霊的直感がはじめて現れる場合、細心の注意を払ってこれと相対することが大切である。一番必要な態度ははじめ師ーもしそのような人をもっているならー以外の誰にもそのことを語らぬことである。なぜならこの微妙な体験を不用意な言葉で語ろうとすると、大抵はひどい間違いを犯すから。大抵は不適当な、粗暴すぎる言葉を用い、その結果、経験内容を言葉にしようとする自分の試みを通して、真の直感のなかにあらゆる種類の空想や幻想を混入しようとする誘惑に陥るのである。「汝の霊的体験については沈黙することを学べ」が神秘学徒にとってのもう一つの鉄則である。

・すなわちふさわしい勇気大胆さが霊界参入には特に必要なのである。この二つの徳性を発達させる機会を、神秘学徒はいたるところに探し求めねばならない。行を通しても、まったく組織的にこの二つを育成せねばならないが、人生そのものが特にこの点では優れた、おそらく最上の道場であるといえる。危険を平静な眼で直視し、進んで困難を克服しようとする態度を神秘学徒は身につけなければならない。たとえば或る危険に直面したとき、すぐ次のように感じられるように努力しなければならない。ー私が今不安を感じたとしても何の役にも立たない。不安を感じてはいけない。何を為すべきか、だけを考えればよい。ーそのようにして神秘学徒は、これまでなら不安を感じたような場合にも、少なくとももっとも内なる感情においては「不安や無気力に陥ること」が不可能になるまでに到らねばならない。この方向に自己を教育することによって、高次の秘密に参入する上で必要とされる特定の力を開発することができる。肉体がその感覚を働かせるためには神経の働きが必要であるように、魂は勇気と大胆さによってのみ生み出される力を必要とする。

・特に、思想生活のもっとも深い部分にこの勇気と大胆さがなければならない。そして失敗をおそれてはならない。「また失敗してしまった。しかしそれを忘れてしまおう。そして何事もなかったように、新しい試みを始めよう」。ー神秘学徒はそう考えることが常にできなければならない。そのようにして、世界のなかから汲み取ることのできる力の源泉が枯渇することは決してないという確信に到達するようになる。

・「平静と孤独の中に留まれ。神秘修行以前に感覚が汝に与え続けてきたものに対して感受性を閉ざせ。これまでの習慣化した思考のいとなみを一切停止させよ。内的にまったく静粛、寡黙になれ。そして忍耐強く待ち続けよ。そうすれば高次の世界が汝の魂の眼と霊の耳を生み出してくれるであろう。直ちに魂と霊の世界を見聞きできるなどと期待するな。汝のそのような実践だけが高次の感覚の育成に役立つ。そして魂で見、霊で聞く能力は、汝がそれを所有し得た時はじめて行使すればよい。それまでは平静と孤独の時間を持つ一方で、汝の稼業にも専念せよ。そして『ふさわしい成熟に達したなら、いつかはそうあるべき自分になるであろう』という想念をその間にも深く心中に刻み込んでおけ。恣意的に高次の力を引き寄せようなどとは決して思うな」。これははじめて道を歩むに際して、すべての神秘学徒が師から受ける教えである。

・修行にとって特に重要なのは、完全な霊的健康のための努力である。不健全な心情生活と思考生活はどんな場合にせよ、人を高次の認識への道から遠ざける。明瞭で着実な思考、確かな感性や感情がこの場合の土台である。神秘修行者にとって、空想癖、激昂しやすい性質、神経質、興奮、狂信などの傾向程有害なものはない。生活環境のあらゆる部分に健全な眼差しを向けるべきである。人生の中で自分が今どこにいるのか、どこから来て、どこへ行こうとしているのか、よくわきまえているべきである。いたるところから事物が自分に向って静かに語りかけ働きかけてくる。

・条件の第二は自分を全体生命の一部分と感じることである。この条件には多くのことが含まれている。しかし各人はそれを自分流に充たしていけばよい。たとえば私が教育者であったとしよう。或る生徒が私の要求に応じない場合、その生徒に自分の感情をぶつけるのではなく、まず自分自身に向い合う。そして生徒と自分とがひとつであるように感じながら、「この子の不十分な点は私自身の行為の結果なのではないか」と問うべきである。そうなれば、自分の感情をすぐ生徒にぶつける代りに、その生徒が私の要求にもっとよく応えてくれるようになるためには、今後私自身がどういう態度をとったらいいのか、熟考するようになるであろう。このような考え方を育てていくと、次第に人間の思考方法が全体的に変化する。そして些細なことに対しても重要なことに対しても従来とは考え方が異なってくる。

・自己改革は各人の内面の問題として、内面の問題としてのみ、始められねばならない。このような考え方からすれば、すべての人間に対して一般的な要求を提出することには何の意味もない。人間はどうあるべきか、ということについて、あまりにも安易な判断が下されている。しかし神秘修行者は社会の表面においてではなく、魂の内奥において判断しなければならない。

・神秘修行の第三の条件はこのことと直接関係している。修行者は自分の思考と感情が世界に対して自分の行為と同じ意味を持つ、という立場に立てなければならない。誰かを憎むなら、すでにそれだけで、なぐるのと同じ被害をその人に与えている。このことが認識できるのなら、私が自分自身を完成させようとする努力が、私ひとりのためではなく、世界のためでもある、という認識に至るであろう。世界は私の純粋な感情や思考から、私の善行からと同じ利益を受けとるだろう。個人の内面世界の、この世界的意味を信じることができぬ間は、神秘修行者となる資格がない。自分の魂に対して、それが外界の事象と同じ現実的な力を持っているという前提のもとに修行を続けるとき、私は自分の内なる魂が何を意味しているかを、はじめて真に確信できるのである。私は自分の感情が手の働きと同じ効力を持つことを認めざるをえなくなる。
 条件の第四は今述べた言葉の中にすでに含まれている。すなわち人間の本質が外観にではなく内部に存ずるという観点を獲得することである。自分を外界(つまり物質界)の所産に過ぎないと考える人は神秘修行上、進歩することが不可能である。自分を魂的=霊的な存在であると感じることは、神秘修行の前提である。この前提に立つとき、内的な義務と外的な成功とを区別することがはじめてできるようになる。

・こう述べることですでに第五の条件が暗示されている。すなわち一旦決心した事柄は忠実にこれを実行する、ということである。みずから間違った決断を下したと認めるのでない限り、何事も修行者の決意をひるがえさせようとしてはならない。すべて決意はひとつの力である。もしこの力が直ちに成果をあげられなかったとしても、その力は生き続ける。成功する、しないは、欲望から行動するときにしか、意味を持たない。そして欲望から成された一切の行動は、高次の世界にとって価値を持たない。高次の世界にとっては、もっぱら行動に対するだけが決定的である。この愛の中にこそ、修行者を行動に駆り立てるすべてが生きていなければならない。そうすれば何度失敗しようとも、繰り返して一度決心した事柄を行動に移そうと、努力し続けるであろう。そして自分の行動に外的な結果が現れるのを期待するのではなく、行為すること自体に喜びと満足を見出すようになるであろう。修行者は自分の行動が、否、自分の全存在が世界のために捧げられていることを学ぶであろう。世界がこの供犠をどのように受け容れるかは別の問題である。神秘修行者たらんとする者は、このような供犠にみずからを捧げる用意ができていなければならない。
 第六の条件は自分に向ってくるすべての事柄に対する感謝の気持を養うことである。自分の存在は全宇宙からの贈り物である。われわれ一人一人がこの世に生を受け、生きながらえることができるためには、どれ程多くの必要条件が充たされなければならないか、どれ程多くのことをわれわれは自然に負い、また他の人々に負っていることか。神秘道を修行する者はこのように考えることができなければならない。

・咽頭近くにある霊的感覚器官には、他の魂的存在の思考内容の在り方を霊視する能力がある。それはまた自然現象の真の諸法則への深い洞察力をも所有しているー心臓近辺の器官は他の魂の志向の在り方を霊的に認識する。この器官を開発した人は、動、植物の隠された諸力をも認識できる。いわゆる鳩尾近くにある感覚器官は魂の才能能力を認識する。この器官によって、動物、植物、石、金属、大気などにおける諸現象が大自然のいとなみの中でどのような役割を演じているのか、洞察することができる。
 咽頭近くの器官は、十六の「蓮弁」または「車輪の輻(や)」をもっている。心臓近辺の器官は十二の、鳩尾近くの器官は十のそれをもっている。
 さて、魂の特定の働きはこれらの感覚器官の開発と関連している。したがったそのような魂の働きを特定の仕方で意識的に活用するなら、該当する霊的感覚器官を開発するための修行をしたことになる。十六弁の蓮華のうち、その八枚は太古の時代、すでに開発されていた。当時人間はこの開発のために、自分からは何も行わなかった、太古の人間はそれを自然からの恩恵として、まだ暗い夢幻的な意識状態の中で、受け取ったのである。当時の意識の発展段階の中で、これら八枚の蓮弁は活動していた。しかしこの活動は当時の暗い意識状態に対応したものだった。その後、意識により明るさが加わるにつれて、これらの蓮弁は逆に暗くなり、遂には活動を停止してしまった。今人間は新たに他の八枚の蓮弁を、意識的な修行を通して、開発することができる。それが可能となれば、十六枚の蓮華全体が一様に輝き始め、活性化される。その十六弁のすべてを活性化することによって、特定の能力が生じる。そのためには、すでに触れたように、ただ八弁の蓮華だけを開発すればよい。そうすれば他の八枚はおのずと活性化される。

・これまで述べてきたアストラル体の開発は、超感覚的現象を知覚する能力人間に与える。しかし超感覚的世界の中で真に正しい見通しを得ようとすれば、この段階に立ち止まる訳にはいかない。他の諸蓮華をただ活動させるだけでは不十分である。人は自分の霊的諸器官の活動を自分でまったく意識的に制禦し、支配することができなければならない。そうでないと外から働きかけてくる諸力に翻弄されてしまうであろう。そうならぬためにはいわゆる「内なる言葉」を聴く能力を身につけねばならない。そのためにはアストラル体だけでなく、エーテル体もまた開発されねばならない。エーテル体とは、見霊者の前に肉体の一種のドッペルゲンガーとして現れるところの霊妙な体のことである。それは肉体とアストラル体との中間の段階にある。見霊能力を持つ人は、意識を完全に保ちながら、自己暗示的に目の前にいる人の肉体を消し去ることができる。これは低次の行的段階における集中力の高次の在り方に他ならない。眼前の事物から注意力をそらせば、彼の意識にとってその存在が消えてしまうように、見者は眼前の物体を知覚からまったく消し去ることによって、その物体を物質的にまったく透明化することができる。彼が眼前の人間に対してこの態度をとるとき、彼の霊眼に、いわゆるエーテル体が、そしてさらにまたそれよりもはるかにひろい範囲にわたって拡がりながら、肉体とエーテル体に浸透しているアストラル体が見えてくる。エーテル体はほぼ肉体と同じ輪郭と大きさを持ち、ほぼ肉体が占めるのと同じ空間に位置している。それは極度に繊細で微妙な有機的組織である。エーテル体の基本色は虹の七色には含まれぬ色である。それは感覚的には全然存在しない色であり、咲き始めた桃の花の色に比較できるであろう。もしエーテル体だけを観察しようとするなら、今述べたような注意力の訓練を通して、アストラル体をも視野から消し去らねばならない。そうでないときのエーテル体は、その全体に浸透しているアストラル体によって、たえず変化させられている。

・霊学は高次の認識に至るための、いわゆる試煉の途上で獲得されねばならぬ四つの特性について語っている。第一の特性は思考内容に関して、真相を仮象から、真理を個人的見解から区別する能力である。第二の特性は現象にとらわれず、真なるものを正当に評価することである。第三の能力は前章に述べた六つの特性、すなわち思考のコントロール、行為のコントロール、持続、忍耐、信念および平心の育成である。第四は内的自由への愛である。
 これらの特性の中に含まれている事柄をただ頭で理解するだけでは何の役にも立たない。それらは魂の習慣になるまでに体得されねばならない。第一の特性を例にとろう。真相を仮象から区別することである。修行者は自分に向ってくるどのような事柄に対しても、非本質的な部分と重要な部分とを当然のこととして区別できるように、自己を訓練しなければならない。まったく平静な態度で、かつ忍耐強く、そのような意味で外界に観察の眼を向ける。しかも、繰り返して何度でもこの試みを続けることが肝要である。最後には極く自然に、非本質的な部分で満足していたこれまでの自分がそうであったのと同じ自明さをもって、真なるものに結びつくようになる。「すべて無常なものは比喩にすぎない」。この真理が魂にとって自明の確信となる。このような仕方で、四つの特性のそれぞれを、修行すべきなのである。

・さらに、この段階に立つ修行者は、感覚的近くによってはほとんど、あるいはまったく、捉えられぬような事象をも知覚する。たとえば低俗な考えを抱いた人たちのいる場所と高い理想を抱いた人たちのいる場所とのアストラル的な相違を知覚する。病院と舞踏場との霊的に異なった雰囲気を近くする。商業都市は大学都市と違ったアストラル的な空気をもっている。はじめのうち見霊能力を得た人間の近く能力はこのような事柄に対して、まだあまり敏感ではなく、ちょうど感覚的人間の夢の意識と同じ程度の不確かさしか持たないかもしれない。しかし次第にこの場合にも完全な目覚めが生じる。

・本当の危険は、霊的経験に際して、修行者が忍耐を持たず、あまりにも早くから自分を独立させ、超感覚的法則を十分認識できるようになるまで謙遜な態度を保ちえなかった時に生じるのである。霊的体験の領域では謙虚とか謙遜とかいう言葉が通常の生活におけるよりもはるかに現実的な意味をもっている。これらの言葉の意味するものが本当に正しく修行者に受け入れられた場合、霊界への参入は、健康や生命に関する危険を一切伴わずに必ず実現される。ー特に注意すべきことは、霊的な体験と日常の出来事や要求との間に不調和な関係を作らないことである。どんな場合にも、人間の使命はこの地上に求められねばならない。地上での使命を離れ、別の世界へ逃避しようとする人は、決して目標に到達しないであろう。ーけれども感覚が近くするものは世界の一部分に過ぎない。そして霊界にも感覚的世界の諸現実の中で自己を表現する霊たちがいる。人間は霊界に関与し、その啓示を感覚界の中に持ち込むことができなければならない。人間が地上を変革しうるのは、霊界から探知しえた事柄を、地上に移し入れることによってである。この点にこそ、人間の使命がある。感覚的な地上世界は霊界に依存している。創造的諸力が隠されているあの世界に関与することによってはじめて人間は地上で本当に有効な働きをすることができる。それ故にこそ、霊界への参入を望むべきなのである。

・修行によって修行者のエーテル体とアストラル体に大きな変化が生じることは当然である。この変化は魂の三つの基本的な力、意志感情思考の進化の過程と関連している。〜(中略)〜
 ーすべてこららの事柄は、人間の霊妙なエーテル体とアストラル体の中で、思考、感情、意志という三つの魂の力の各中心点が規則的な仕方で互に結びついていることによるのである。エーテル体とアストラル体におけるこの結合は肉体の中にも反映している。肉体においても、意志の器官は思考や感情の器官と規則的な仕方で結びついている。それ故、特定の思考内容は感情や意志の活動を規則的に呼び起こす。ーさて、人間の霊的進化に際して、これら三つの基本的な魂の力を結びつけていた糸が断ち切られる。最初この切断は、今述べた霊妙な魂の組織体の中でのみ生じる。しかし修行がさらに進むと、この分裂は肉体にも現れてくる。(人間が高度な霊的発展を遂げると、実際に、たとえば頭脳は互に区別された三つの部分に分れる。勿論この分離は通常の感覚的な観察によっては認めることができず、どんあ精巧な観察機械を使用しても証明できない。しかしこの分離は実際に生じる。そして見者はそれを観察する手段を持っている。優れた見者の頭脳は、それぞれ得立した働きを持つ三つの部分、すなわち思考頭脳、感情頭脳、意志頭脳に分れている)


まだ色々重要そうな内容はあったが、一旦はこの辺にしておく。そんなんで以上☆
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