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読んだ本の感想と旅行の日記を書いていきます。
後、その他なんかあれば・・・

159冊目:「洗脳原論」

2017-06-18 20:20:46 | 
総評:★★★★★ 新しい発見という点で5ツ星!
面白い度:★★★☆☆ 途中から面白くなってきた
読みやすい度:★★☆☆☆ 専門用語が多かった
ためになる度:★★★★☆ いろいろ新しい学びがあった。
また読みたい度:★★★☆☆ 普通


「洗脳」について書かれた苫米地英人さんの著書。
「闇金ウシジマくん」を見て、洗脳って怖いな〜って思って、洗脳のメカニズムを知りたいと思って読んでみた本。

専門用語がたくさん書いてあったが、それなりに理解しやすい良書でした。

とりあえず、洗脳の定義というのが難しいが、一旦自分の中では、「自分で正常な判断ができず、他人の意のままに動かされてしまう状態」と簡潔に定義しておく。
洗脳をする人は対象者に対して、「アンカー」というものを埋め込む。これは対象者を洗脳状態にすぐに陥れるもので、ある行動や言葉などがトリガーとなり、アンカーとして埋め込んでおいた体験や状態をすぐに引き出されることになる。

アンカーである体験や状態が引き起こされると、その人は正常は判断を下すことができなくなる。いわゆる洗脳状態に陥る。
オウム真理教は信者に、なんらかのビデオなどの映像を見せることで、このアンカーを埋め込んていたようである。
著者の苫米地さんがオウムの信者に対して、洗脳状態にある患者に対して洗脳を解く、「脱洗脳」をすることになったのだが、このアンカーが脱洗脳中に引きだされると、患者は突然狂ったように悲鳴をあげたり、自傷行為をしたり、監視していない所にいる場合は行方不明になったりすることもあるため、このアンカーが予期しないうちに引きだされることを一番懸念していた。(ちなみに脱洗脳とは、一回限りのセッションとかではなく、ある期間の間にゆっくりと洗脳を解いていくものであるそうだ)

催眠術師などもこのアンカーの埋め込みをすることで、相手を催眠状態にして意のままに動かすということをしているらしい。この場合のトリガーとは、「指をならす」とかの行動になる。
なので、洗脳をする人に大事なことは、いかに効果的にアンカーを対象者に埋め込むかということになる。
そして脱洗脳で大事なことはその逆で、いかにアンカーを引き出さずにこのアンカーを取り去れるかということになるらしい。


アンカーの埋め込みには、対象者を「変性意識状態」にさせることが必要らしい。この変性意識状態は誰でも起こり得るもので、よく言われる「ゾーンに入る」ということもこれに当たる。
この変性意識状態を作り出すためには、対象者を何か一つのことに没頭させるなど、何かしら特殊なことを行わせる必要があるらしく、「ヨガ」などは、その変性意識状態を作りやすくなるため、オウムでは、このヨガを信者の活動として行わせていたのだった。


まあそんなんで、ヨガとか変性意識とか、なんか自分が趣味としてやっているヨガがこの変性意識の入り口になっていたのはなかなか驚きであった。
でもヨガが洗脳の入り口たり得ることはなかなか複雑な気分であった。


そんなんで他に、「ディベート」というのが洗脳と深い関わりがあるらしく、脱洗脳をするには、このディベートスキルを磨いて、脱洗脳の対象者にはロジカルに理詰めでその人の考えや言っていることを論破することで、このアンカーも次第に取り去ることができるらしい。
逆にオウム真理教の上祐などは、このディベートがとてもうまかったらしい。このため、信者がオウムに何か疑念を持ったとしても、上祐がロジカルに話すことで信者をうまく丸め込み、信者の改心を防いだり、新たに信者を引き込んだり、洗脳することもうまくできたのではないかと思う。


まあそんななかなか面白い内容が結構詰まっている本でした。
そんなんで面白いと思った箇所を抜粋していく。

・人の心には、決して素人が素手で触れてはいけない意識の闇の部分がある。それを本書では、ダークネス・バウンダリー(darkness boundary)、すなわち闇の境界線と便宜的に呼ぶことにする。フロイトは、抑圧が、「無意識」と「前意識」(意識)の体型の境にある表象について行われる過程であるとしているが、まさにこの心的外傷(トラウマ)が、記憶の淵に抑え込まれて抑圧されるその意識の底の界面が、私のいうダークネス・バウンダリーである。
 その闇の境界線を踏み越えて、人間の心の深淵を操作することが許される人がもしいるとすれば、精神的な思考トレーニングをかなり積み、精神的スキルを身につけた思想家や宗教者、もしくは、極めて熟練した精神科医や心理学者などであろう。しかし実際、巷にはこの境界を安易に超えてしまう方法がはびこり、未熟な人物がその技を体得して、簡単にその領域に侵入し、トラブルを引き起こしていることが多いようである。

・この体験に神秘体験として特別な意味づけがなされてしまうと、その圧倒的なリアリティの体験のせいで、脱洗脳が特に困難となる。これがカルト洗脳で最も厄介な部分である。カタルシス体験やエクスタシー体験と呼ばれる神秘体験は、体験してしまった本人にとっては嘘偽りのない純粋かつ圧倒的な感激体験であり、他人からこれに対してどのような説明がなされても、自身の体験のリアリティを打ち消すことはありえないのである。
 なぜあんな学歴の高い人がカルトに洗脳されてしまったのだろうと問われることが多いが、私の知るかぎり、教義の体系の完成度うんぬんの前に、多くの場合このような圧倒的な神秘体験を経験しているものである。その体験のあまりの強烈さに、人格や考え方が一晩で変わってしまうのも特に珍しいことではない。
 より理解がされやすい同様な体験として臨死体験がある。交通事故などで生死の境をさまよったあげく、運よく死の淵から生還した人たちが、一様に、光のトンネルや三途の川らしきものを見てきた話をする。あれと同様な体験がいわゆる神秘体験なのである。臨死体験を経験した人が、急に信心を持ったり、地球の平和を唱えだしたりするのと同様な体験が、正当な宗教修行における体験でもあるし、またカルトの人工的な洗脳による体験でもあるのである。
 さて、これをデプログラミングする手法であるが、こればかりは、より強烈なカタルシス体験なり神秘体験を経験させせるしかない、というのが現在における私の結論である。〜(中略)〜
 したがって、強烈なカタルシス体験、エクスタシー体験をともなう神秘体験経験者をでプログラムするには、より強烈な体験を引き起こすしかない。

・ディベートは情報内容の勝負である。感情的なものを一切排して行われる。状況として一番近いのは、会社の取締役会や軍隊の参謀会議であろう。どの戦略をとったら企業間戦争ないし本物の戦争に勝てるか。そんな議論をしている時、話し手が汚い格好をしていようが口が悪かろうがタバコを吸おうが関係ない。トップは勝てる方法をよりよく証明した意見を選ぶ。事実だけが問題。そういう議論を形式化したのがNDT方式である。国民の前で行う政治家の演説や、陪審員の前で行う法廷論争は、情に訴えたり演技的要素が強いという意味では、どちらかというとCEDA方式のディベートといえよう。

・会って最初の一二時間はディベートをした。ディベートは、相手が未熟で、命題が高度であればあるほど知識がいらない。テコの原理のように、相手の知識を全部引きだし、そのなかのほんのわずかな綻びを追求していくことで、論理全体を崩壊させるのだ。最終的には、ひとつの逃げ道も残らなくなるまで相手の論理を潰すのである。
 だから彼女がもともと証明したかった、話せば十五分か三〇分程度の命題を完全に否定するため、まずありとあらゆる知識を彼女から引きだした。そして一二時間ほどかけて、その知識から捻出された理由を、ひとつ残らず論破した。
 少し詳しくUとのやりとりを再現してみよう。
 最初、軽く挨拶を交わすと、彼女はすぐにオウムは悪くないと主張しはじめた。私はその矛盾を軽く追求した。すると一〇分から一五分足らずで、彼女がもっとも突きつめた話がしたくなっているのが見てとれた。ディベートの論題はオウムの教義ではなく、どちらかというと抽象度の高い哲学の話題であった。最初の三〇分くらいは、話の内容を理解するため、彼女はおとなしく私の意見を聞いていた。しかしその後はむきになって、ほとんどケンカ腰で私に挑んできた。
 その罵声に似た口調に、お母さんがあわてて、
 「先生に失礼だからやめなさい」
 と言って止めようとした。でも私には余裕があった。わざと怒らせるよう挑発していたぐらいだった。彼女は途中で、ケンカを通り越して本気で感情的になり、ヒステリックにわめきだした。
 相手が感情的になったらこっちのものだ。感情を出せば、こちらが意識の深いところにアクセスできる隙を見せることになる。私が喋っているときは、意識と無意識の両面から相手を攻撃している。意識レベルをディベートで、無意識レベルは感情の抑揚を誘うことで責めているのである。
 〜(中略)〜
 否定的にとらえていた概念や命題を徹底的に考え抜いて、そうかもしれないと肯定に転じた瞬間、人はさらに変性意識に入りやすくなる。人間の脳はある程度情報処理の限界を超えると、変性意識に入るという変わった性質を持っているので、ディベート中、オーバーロードさせるような矛盾関係を、論理のなかにたくさん作りあげていくのもポイントである。
 デプログラミングのプランとしては、会う前から一二時間かけてディベートをしようと計画していたわけではない。せいぜい数時間程度を目安に考えていた。最初の三〇分から一時間は彼女の話を聞き、それに基づいて、彼女の論理を利用し、その論理で構築できる大きな因果関係の輪(論理チェーン)を設計する。その大きな因果のチェーンは、さらに小さい単位の、たくさんの論理の因果の輪によって成り立っている。もちろん彼女は、それぞれの小さな論理のチェーンの帰結する主張は想像できるのだが、最終的に大きなチェーンでまったく異なる結論に導かれることには気がついていない。
 最初少し話をして相手の思考パターンをつかんだのち、もう一度持論を相手に説明させると、自らの主張の論理的な帰結として、最後に、その自論自身が打ち砕かれる仕掛けにするのである。チェーンは三時間から五時間分の長さ。慣れているので、その場の即興で作ることができる。それを丹念に一〇時間か一二時間かけてたぐり寄せさせると、相手の主張は、その主張自身によってことごとく潰れてしまう。
 相手の論理をあらかじめ設計してあげる。そして、それを相手の言葉で、自分で構築するように誘導していく。それは技術的には、意識上の説得というよりディベートである。そういう抽象空間に相手の意識状態を構造化して持ちこみ、最終的にある瞬間に脱構築する。それ自体、変性意識状態における内部表現の操作に他ならない。
 〜(中略)〜
 チェーンの輪をたぐりながら、ありとあらゆる矛盾関係が出てくると、途中からは、もうオウムで慣れ親しんだロジックをいくら振りまわしても有効に考えられなくなる。そうなればこちらのものである。
 〜(中略)〜
 このディベートで論じた抽象度の高い話題は何だったかというと、たとえば「知とはなんぞや」という問いだった。哲学における命題では、知識というのは正しくなくてはならない。命題の真偽値が真でなければ、知識とはいわないのだ。
 自分の一番信じている友達がいて、その友達から誰かの電話番号を教えてもらったとする。しかし電話をしても、なぜか電話番号が間違っていて繋がらなかったら、私はその人の電話番号を知っているとはいえないはずだろう。同様に、何らかの事件を起こした犯人を人づてに聞いて、犯人を知っていると思っていたとしても、調査の結果、その人が真犯人でなかったとしたら、犯人を知っていたとはいわない。
 ある命題を「知」というならば、世界に起こるすべての場合において、それが真でなくてはならない。「電話番号を教えてくれた人は私が一番信頼している人だから、繋がらなくても正しいはずだ」と主張したところで、何の説得力も持たない。要するに「信じること」と「知ること」とは違うのである。ある事件の犯人を、あらゆる状況証拠から、犯人であると信じるに足る要件が整っていたとしても、もしその人が真犯人でなかったら、犯人を知っているとはいえないのと同様だ。命題が真でなければ、「知っている」とはいえないのである。正しいと「信じている」にすぎない。
 ここまで理解させたあと、この命題を麻原教祖に置き換えて考えさせてみた。麻原教祖は素晴らしい人格者で、真実に足る人間で、行動にはまったく悪意がなかったのかもしれない。だから彼に教えられた教義という名の携帯電話の番号が、間違っていたと非難されても、番号を聞き間違えたかもしれないし、麻原教祖が言い間違えていたかもしれないし、電話するときにかけ間違えていたかもしれない。しかしその過程がどうあれ、思っていた番号が間違っていたなら、それは知るとはいわない。そういうことは哲学では、知識とはいわないのだと、と彼女に説明した。
 〜(中略)〜
 議論のあいだは、こちらの知識を教えるというスタンスは決してとらない。ソクラテスの問答のように、向こうの考えを教えてもらい、それについてどんどん質問する。すると彼女は自分で言った答えで、最後に矛盾に陥るという構図ができあがる。
 〜(中略)〜
 ここで誤解を招かないよう特筆すべきことがある。私がデプログラミングにディベートを使うのは、ただ単純に、相手に圧倒的に勝つためだ。ディベートで教義を否定して、もともとの教義を捨てさせる気持ちはない。こちら側に圧倒的優位な立場を作りあげ、内部表現の操作を完全にしたいのである。
 もちろんディベート手法をベースに教義の矛盾を突き、改宗させるという方法論はある、しかし、ことオウムに関しては、アンカーとりという重要な作業なしにデプログラミングが成果をあげるものではなく、アンカーとりを成功させるためには、無意識に対して、ほとんど絶対的な権威をもってアクセスを可能とする関係を築く必要がある。このために、私は圧倒的に勝てるからこそディベートを使うのだ。

・ヘップらによって明らかにされた洗脳的手法は、その後、経済的な分野と精神的な分野のふたつの分野で応用されてゆく。
 経済的な分野というのは、ビジネスで儲けるためにその手法を用いることである。日本にも催眠商法とかSF商法と呼ばれる形で伝わっている。
 ある会場に主婦や老人を大勢集め、最初に無料で景品をどんどん渡し、甘い言葉とともに雰囲気をなごませて気持ちをほぐしたのち、高額な不毛布団などを持ち出して「いま買うとお得ですよ」と強調すると、不思議なことに、会場の主婦らはこぞってその布団を買おうとする。
 このように、人の心を商品を買わせたりする方向に操ることができれば、当然、経済的なメリットは非常に大きい、洗脳かどうかのギリギリのグレーゾーンで成り立っているやり方も見かける。いわゆるネットワーク・ビジネスで、日本経済新聞などに堂々と広告を出すような会社も日本に入ってきている。これは洗脳ではないと言われるかもしれないが、少なくともその根源に、あきらかな洗脳的手法があることは間違いないだろう。
 
・ただし、日本にはアメリカと異なる状況がある。たとえば精神科医の地位である。アメリカ社会では、精神科医は日本の歯医者のような存在である。俗にそれらの医師はシュリンクと呼ばれているが、アメリカ人は予防的にも通うし、それどころか鬱がひどい状態で行ったりすると、虫歯を放っておいた時のように、「どうしてこうなるまで放っておいたのか」と不思議がられてしまう。
 こういった現象は、アメリカのストレス社会の反動でもある。ニューヨークのウォール街で働く、毎日が成功と失敗の連続である株のディーラーたちが、シュリンクに通いたがるのは自然の成り行きだ。競争社会のなかのオアシスとして、シュリンクは機能しているのである。
 しかし、アメリカ同様に経済大国化した我が国においてはどうだろう。社会がアメリカ並みのストれるをかかえ、個人レベルで解決できない段階にまで達しているというのに、歯医者のようなつもりでシュリンクには行けない。それでは宗教の僧侶が機能しているかといえば、僧侶の出番は人が亡くなったときくらいである。
 つまり日本には、「癒し」の役割を果たす人間がほとんど存在しないのである。町の占い師は、「われわれがそういう役割を果たしている」と主張するかもしれないが、ポピュラーな存在として誰もが行くところでは決してない。
 いま現在、二〇〇〇年時点の日本には、すがるものは何もない。この不況で資本主義への信頼が薄らいだことは言うまでもあるまい。日本人の心は、仏教にも、神道にも、シュリンクにも頼れず、よりどころを失っている。この点は、いま最も日本社会に危惧を感じているところである。早急な措置を施す必要性はあまりにも高いのだた。

・宗教の哲学的な価値は、二〇〇〇年ほど前に凍結したのではないかと思った。かの空海も一一〇〇年前の人である。日蓮にしても八〇〇年経っている。また伝承の問題もある。いかに彼らが天才だったとしても、その後の弟子たちも賢かったという保証はどこにあるのか。
 一方、哲学はもともと宗教から発し、そのなかで知識や物質といった宇宙の本質を思索する学問として育てられてきた。西洋で十字軍など残酷な宗教戦争が次から次へと行われ、東洋ではーもちろん例外はあろうがー多くの寺院が権力と深く結びついて、政治団体と化し、あるいは単なる冠婚葬祭の祭儀集団となっているあいだにも、哲学の世界では多くの天才が生まれ、とどまることなく発展をつづけた。数字と計算機科学が大きく発展した二〇世紀には、哲学は飛躍的に進歩した。この二〇年程のあいだにも、新しいパラダイムが次々と生みだされている。
 そう考えをめぐらせ、宗教者と哲学者のどちらがよくものを考えているかと問うたとき、答えは必然であった。心の平安をもたらすものは、二一世紀においては、もはや宗教ではない。哲学である。これが私の結論であった。

・脱洗脳を五年経験して、私は幻想を捨てた。われわれが自信をもってきわめつつある現代の先端哲学や自然科学の言葉で、二一世紀の日本を暗黒時代から救うことができるとはもう思わない。伝統宗教の怠慢は、日本人の精神性をそこまでだめにしてしまったと正直感じる。
 これはオウムの構成員やシンパたちについてだけ言っているのではない。この五年間に関わってきたジャーナリスト、弁護士、医師、学者、聖職者、会社経営者、公務員らの精神性を間近に見て、そう思うのだ。
 五年前まで、政府プロジェクトや大学のアカデミズムという、いわば象牙の塔に私はこもっていた。さらに成人期の多くを米国ですごした。
 ことさら米国の肩を持つ気はないが、私の知るかぎり、米国の知的階級や、東大、京大にあたるような名門大学の学生は、ここまでひどくない。大統領が就任時に「ヘルプ・ミー・ゴッド」というのは国家として行きすぎではないかと思っていたが、オウム信者の脱洗脳を経験して、やはりあれでアメリカはいいのだと感じるようになった。
 アメリカはキリスト教国である。霊魂や超自然的な存在を本来否定する仏教の国ではない。結果、日本以上に、魂や悪魔、自然を超える神的存在が、テレビや映画のテーマになり、その意味で人々の心は、日本以上に神秘主義の人質となっている。ただし日本に比べて、伝統宗教ーキリスト教が、はるかに深く社会に浸透している。そのせいか、カルト問題はもちろんあるが、日本ほどの危機感を国家レベルで感じることがない。それにもまして大人の倫理観は、この五年間で私が直接体験した日本の大人に比べてはるかに強固である。
 会社での三メートル離れた部長席への出世が人生のすべて。電車で目の前に立った老人とは目を合わせたがらない日本の大人たち。このすべてを宗派仏教の怠慢のせいだという気はない。ただ、二五〇〇年前の釈尊の言葉を読み返すにつれても、こうなったらいっそ日本は、思いっきり仏教国になるほうがよいのではないかとすら思うようになったのだ。


以上、こんな感じです。
読み返すと改めてとても深いことが書いてあるなあと思った。
人の心に平安を与えるものは宗教ではなく哲学。
これは本当に新しい学びだなあと思った。

日本はここまで宗教というものに浸ってはいない。仏教と神道が混在する多信教の国である。
それも日本のオリジナリティであるとは思っていたが、宗教が日本人に根付いていないことによって、カルト宗教の台頭など、何かしら危ういものも秘めているデメリットもあるんだなあと思った。

そんなんで今回の感想は以上☆
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158冊目:「1Q84 BOOK3 前編」

2017-06-04 19:56:50 | 
総評:★★☆☆☆ この淡々さはなんだろう?
面白い度:★★★☆☆ 普通には読める。
読みやすい度:★★★★☆ 読みやすい。
ためになる度:★☆☆☆☆ ためにはあまりならないんじゃないか?
また読みたい度:★☆☆☆☆ 二度見はしなくていいんじゃないかと。


1Q84の続きであった。

今度は登場人物に牛河が出てきて、3人からの視点の物語が描かれる。。。

しかしこのダラダラ感はなんだろう?
特に山場もなく、天吾くんは療養所に行き、青豆は潜伏し、牛河は探し続けている。

なんか色々言い回しはあるが、どうでもいいような言い回し多くない?
長めのページの割に物語としてはそれほど進んでないなあと思った。

そして青豆と天吾は出会うかと思ったらまたしても出会わなかった。
そこがクライマックスなのかと思うのだが、ダラダラと書いているよりかは物語をスピーディーに進ませてほしいなあと思いました。

そんなんでラストあと1巻。頑張って読もうと思う。
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