総評:★★★★★ 色々良かった。
面白い度:★★★★☆ 面白かった。
読みやすい度:★★★★☆ 読みやすかった。
ためになる度:★★★★★ めっちゃためになった。
また読みたい度:★★★★☆ 初心にかえりたいときにまた読みたい。
面白い度:★★★★☆ 面白かった。
読みやすい度:★★★★☆ 読みやすかった。
ためになる度:★★★★★ めっちゃためになった。
また読みたい度:★★★★☆ 初心にかえりたいときにまた読みたい。
投資を勉強したいと考えているのだが、その投資を学んでいく上で、これだけは読んどけと名著となっていた本。
投資の成功者と呼ばれる本多静六さんが書いた本で、本多さんは明治維新の頃のかなり昔に活躍された方だった。
1866(慶応2)年、埼玉県生まれ、苦学の末、1884(明治17)年に東京山林学校に入学。一度は落第するも猛勉強して首席で卒業、その後、ドイツに私費留学してミュンヘン大学で国家経済学博士号を得る。
1892(明治25)年、東京農科大学(現在の東大農学部)の助教授となり、「月給4分の1天引き貯金」と1日1頁の原稿執筆を開始。研究生活のかたわら植林・造園・産業振興など多方面で活躍、日比谷公園の設計や明治神宮の造林など大きな業績を残すだけでなく、独自の蓄財投資法と生活哲学を実践して莫大な財産を築く。1927(昭和2)年の停年退官を期に、全財産を匿名で寄付。その後も「人生即努力、努力即幸福」のモットーのもと、戦中戦後を通じて働学併進の簡素生活を続け、370冊余りの著作を残した。1952(昭和27)年1月、85歳で逝去。
と、上記は本のカバー頁の本人紹介の分をそのまま抜粋した。
これを見ただけで、何やら凄い人で、自分を顧みず一生をかけて日本のために尽くされた方とっ察することができ、とても頭が下がる思いである。
そんな経歴から人間性が拝見できる方の考え方がまとまったエッセイ的な本なのであった。
と、本を読んでもタメになる内容がめっちゃあったので、内容についてはあまり書かなくても、その部分を抜粋するだけで内容としては十分かなと思い、その分だけ抜粋する。
・人間の一生をみるに、だれでも早いか晩いか、一度は必ず貧乏を体験すべきものである。つまり物によって心を苦しまされるのである。これは私どもの長年の経験から生まれた結論である。子供のとき、若い頃に贅沢に育った人は必ず貧乏する。その反対に早く貧乏を体験した人は必ずあとがよくなる。つまり人間は一生のうちに、早かれ、おそかれ、一度は貧乏生活を通り越さねばならぬのである。だから、どうせ一度は取る貧乏なら、できるだけ一日でも早くこれを通り越すようにしたい。ハシカと同じようなもので、早く子供の時に貧乏を通り越させてやったほうが、どれだけ本人のためになるかわからぬ。まことに若いときの苦労は買ってもやれといわれているが、貧乏に苦労し、貧乏し抜いてこそ、人生の意義や事物の価値認識をいっそうふかめることができるのです。貧乏したことのある人間でなければ、本当の人生の値打ちはわからないし、また堅実に、生活の向上をめざしていく努力と幸福は生じてこないのである。
貯金生活をつづけていく上に、一番のさわりになるものは虚栄心である。いたずらに家柄を誇ったり、いままでのしきたりや習慣にとらわれることなく、一切の見栄をなくさえすれば、四分の一天引き生活くらいはだれにでもできるのである。自分のネウチが銀もしくは銅でしかないのに、暮らしのほうは金にしたい。金メッキでもいいから金に見せかけたい。こういった虚栄心から多くの人が節倹できないのである。銀はどうせ銀、銅なりに暮らせばいいのであるが、さらに人生をより安全にし、生活をより健全にしようとするならば、むしろ一歩を退いて―事実は一歩を進めて―実力以上の銅なり、鉄なりの生活から出発していくべきだろうではないか。戦後のなにもかも新規蒔き直しの生活には、とくにこの決心と勇気が必要であると思う。
・しかし、その具体的な説明に入る前に、何事にも成功を期するには、ぜひこれだけは心得おくべしといった、大切な処世信条の一つを披歴しておく。それは、何事にも「時節を待つ」ということだ。焦らず、怠らず、時の来るを待つということだ。投資成功にはとくにこのことが必要である。
・しかし、そうした大変動ばかり心配していては、何事にも手も足も出せない。したがって、投資戦に必ず勝利を収めようと思う人は、何時も、静かに景気の循環を洞察して、好景気時代には勤倹貯蓄を、不景気時代には思い切った投資を、時機を逸せず巧みに繰り返すよう私はおすすめする。
・いったい、財産をつくる目的の最初は、だれしも生活の安定とか、経済の独立とかにおかれるものであるが、それがいつしか、「子孫の幸福」につながる親心に発するものとなってくる場合が、大部分である。
すなわち、できるだけ多く財産をこしらえて、できるだけ多く子孫に伝えたいといった世俗的な考えに変化してくるものである。恥しながら、私にも多少そうした愚かさが萌さないでもなかった。私もわが子孫の幸福について考えるに、まず子孫を健康に育て、完全な教育を施し、かつ相当な財産を分与してやりさえすれば、それで十分幸福にさせられるものと早合点したのである。これははなはだ間違った考えで、最後の相当な財産の分与などはまったく顧慮する必要がなく、それはかえって子孫を不幸に陥れるものだと漸次気付くにいたったのである。
「幸福とはなんぞや」という問題になると、少しやかましくなるが、それは決して親から譲ろうと思って譲れるものではなく、またもらおうと思ってもらえるものでもない。畢竟、幸福は各自、自分自身の努力と修養によってかち得られ、感じられるもので、ただ教育とか財産さえ与えてやればそれで達成できるものではない。健康も大切、教育も大切、しかし、世間でその中でも最も大切だと早合点している財産だけはまったく不要で、それよりももっと大切なのは、一生涯絶えざる、精神向上の気魄、努力奮闘の精神であって、これをその生活習慣の中に十分染み込ませることである。
・ゼイタク生活の欲望や財産蓄積の希望についてもそうであって、月一万円の生活をする人が二万円の生活にこぎつけても幸福は二倍にならぬし、十万円の財産に達しても、ただそれだけではなんの幸福倍化にはならない。むしろ、その生活の動きの方向が、上り坂か、下り坂か、上向きつつあるか、下向きつつあるかによって決定せられるものである。
つまりは、現在ある地位の高下によるのではなく、動きつつある方向の如何にあるのである。したがって、大金持ちに生まれた人や、すでに大金持ちになった人はすでに坂の頂上にいるので、それより上に向かうのは容易ではなく、ともすれば転げ落ちそうになり、そこにいつも心配が絶えぬが、坂の下や中途にあるものは、それ以下に落ちることもなく、また少しの努力で上へ登る一方なのだから、かえって幸福に感ずる機会が多いということになる。
・ともかく、一度金を借りにくるくらいの人は、必ず二度、三度と借りにくる。そのときには再び貸さねば先の分まで死ぬということになって、再三無理をして貸し出してしまう場合が多い。そうして、自分にもこれ以上、もう貸す力がなくなるという頃には、いつしか切っても切れないという深い関係に陥ってしまう。こうして世の中の人々の多くが、善意に始まって、ちょっと金を融通したことからついに自分までも倒産の憂き目をみるに至るものである。私もここのところに気付いいたため二度目にキッパリと断り、最初の恩借を無視されたばかりでなく、かえって大いに怨まれた場合さえしばしばあった。
いずれにしても、少し金ができてくるとだれにも必ずこの賃借のトラブルが起きてくる。こうした際、何人も心を鬼にして最初から一切融通に応じない方針を厳守するよう、私は私の体験からみなさんにおすすめする。またそれが本当にお互いのためでもある。
・しかし、金儲けは理屈ではなくて、実際である。計画ではなくて、努力である。予算ではなくて、結果である。その秘伝はとなると、やっぱり根本的な心構えの問題となる。
そこで、私のお説教は例によって、まず「処世の要訣」におちた。二億円からの大金持ちになろうというからには、なんとしても積極的に、人並み以上の大活動を覚悟しなければならぬ。頭も体も人一倍に働かさねばならぬ。しかも暮らし向きは消極的に、人並み以上にできるだけつめてかからなければならぬ。家族一同気を揃えて、最低生活に甘んじなければならぬ。
こうして、「ならぬならぬ」を辛抱強く実行して、やがてはその希望を必ず達するという確信の下に、明るい生活を続ける。そうすれば、霊肉一致、心身一如、ないしは身心相互補助の理によって、健康も得られ、活動力も生まれ、すべてによい判断もうかんできて、大願成就疑いなしと焚きつけたのである。
・それゆえ、私は体験社会学の一章としてこういいたい。「失敗なきを誇るなかれ、必ず前途に危険あり。失敗を悲しむなかれ、失敗は成功の母なり。禍を転じて福となさば、必ず前途に堅実なる飛躍がある」と。
・「論語と算盤」―これは渋沢さんが、どこへ行ってもよく振り回された事業繁栄の道、処世の要締といったものであったが、「利」をもって立つ実業家を、さらに「理」と「情」をもって導き、自らもまたその実践につとめられたのはなかなか見上げたものである。渋沢さんはよくこういっていた。
「事業というものは、儲かるものでなければ成り立たない。儲からなくてただ有意義だというのでは、結局長続きしないで、せっかくの有意義が有意義でなくなる。儲かる上に有意義ならなおさら結構だが、なんとしてもまず事業は儲かることが先決問題だ。しかし、この儲けを一人占めしようなどと企てては結局失敗である。儲けるのはみんなで儲けなければならぬ。またみんなで儲かるようなものでなければ、いい事業、いい会社にはならない」
・「先生は何事も正直がよいとおっしゃるが、そこには多少色付けが必要ですよ。修繕物をもって来られたお客の前で、ヘイさようでとすぐ直していては、商売が成り立ちません。とくにラジオ屋などは、ネジ一ついじくればすぐ直るとか、銅線一本とり替えればすぐきこえるといった場合が多く、そんなことをお客の前でやれば一分とかかりません。客は喜んで、いくらかときかれますが、あまり簡単なので、ことに懇意な間柄など、つい、いやまたあとで御一緒にということになってしまう。
だから世慣れた電気屋になると、ちょっとフタを開けて、ハハ大したことはありませんが、だいぶあちこち損んでいるようですから、しばらく預からして頂きますというようなことになる。そうすれば修繕量も気兼ねなくもらえるし、店先も賑やかで、いかにも繁盛しているようで景気がいい。かといって別に不当の料金は頂きませんよ。本当に家賃と、日当と、税金になりさえすれば当節有難いんですから。
もっとも先生は、そこをもっと正直にやって右から左へ片づけてやったほうが正直を宣伝し、勉強が売り物になって、かえって大繁昌するんじゃないかとお𠮟りになるかもしれませんが、万事商売というものはこうしたもので、いまの世の中、そんな聖人君子のようになり切ってはとても食ってはいけません。商売人には、正直にも多少の色をつけんとやっていけません。先生もその辺のところをみんなに教えてくださいよ」
ときたのである。私もこれにはぐうの音もでなかった。なるほど、実際の商売とはそんなものかと感心した。何事にも多少の色付けが必要―努力に加うるこの世渡り術の工夫、いわれてみれば私にもそれはよく呑み込めた。
前にも述べたように、世の中にはどこにも裏表がある。がむしゃらにただ正面から押し通せばよいというものでもない。一つの城を攻めるにも必ず大手と搦手がある。複雑な社会を一本調子で進み得ると早合点してはいけない。特に商売などをする人には商売術の研究が必要である。もちろん「正直は最良の商路」ではあるが、その正直にときと場合により、しかるべき色付けが大切であるようだ。
・そこで私は、いまさらながら、「私の社会体験学」として力説したい。―それは、いかなる場合、いかなる職務でも、自分自身にその実力さえあれば、与えられた当然の地位は敢然と引き受けるべし、ということである。
つまらぬ儒教流の古いこだわりをすて、聖人君子を志さない限りは、仕事の上で決して無用な謙遜などしてはいけない。遠慮なく進んで、できるだけ自分で満足のいく位置を確保すべきである。もしそこに、尽くさなければならぬ師弟の礼や、友人間の情誼があったとすれば、それは十分他の途によって尽くされるであろうし、また尽くされなければならぬ。心にもない一時的な偽善行為で、決してその場だけを繕うことをしてはならない。
生じっかな「見てくれ」の美行は、かえってわれわれ凡人には、自他ともに不都合な結果をもたらすのである。大いに働き、大いに勤めるためには、仕事の上の遠慮は一切無用である。少年にして高科に登るは不幸かも知れぬが、登るべき高科に登らぬのもまた不幸であろう。まして、少年たらずして中年者たるにおいてをやだ。とにかく、偽善的なケンソンはつまらぬ。
・私の体験によれば前にもしばしば述べたように、人生の最大幸福は職業の道楽化にある。富も、名誉も美衣美食も、職業道楽の愉快さには比すべくもない。道楽化をいい換えて、芸術化、趣味化、娯楽化、スポーツ化、もしくは享楽化等々、それはなんと呼んでもよろしい。すべての人が、おのおのその職業、その仕事に、全身全力を打ち込んでかかり日々のつとめが面白くてたまらぬというところまでくれば、それが立派な職業の道楽化である。いわゆる三味境である。そうしてこの職業の道楽化は、職業の道楽化それ自体において充分酬われるばかりでなく、多くの場合、その仕事の粕として、金も名誉も、地位も、生活も、知らず識らずのうちにめぐまれてくる結果となるのだから有難い。
・なんでもよろしい、仕事を一所懸命にやる。なんでもよろしい、職業を道楽化するまでに打ち込む、これが平凡人の自己を大成する唯一の途である。世の中には天才だけにしかできぬという仕事はあまりない。少なくとも、職業と名のつく職業であれば、すべては平凡人の努力によって、完全にこれを道楽化する処までいけるものだ。今日の学問からいうと、本当の天才は、天才的な遺伝要素が必要で、われわれ凡人は本当の天才にはなれない。だが、いかに不得手なことでも、一所懸命やれば上手になれ、好きにもなれ、天才にはなれなくとも、まず天才に近いものにまではなれる。私もいろいろな体験からこうと気付いたのであるが、後にゲーテの『天才論』をみたら、やはり「天才とは努力なり」と、同じような結論がでていて、はなはだしくわが意を得た次第だった。
・有志家にはだれもなりたがるものである。しかも、有志家的野望といってもだんだんで、町内会の世話役、同業組合の幹部、何々委員会の委員といったところから、小は町村会の議員、大は国会の衆・参議院などまでいろいろの公職がある。自分からなろうと望む場合もあろうし、また周囲から推し立てようとする場合もあろう。いずれにしても、それに心動かすのは、十中の八九まで権力と名誉へのあこがれからである。したがって、私は単なる名誉心や権勢欲にかられての、この有志家気取りや政治家志望を厳に戒めたいと思うのだ。
平凡人の進む道はあくまでも「柄相応」でなくてはならない。
元来、名利は与えらるべきもので、求むべきものではない。自ら求めて得た名利は、やがてこれを失わざらんことに汲々としなければならず、しかも、それは瓶中の花のごとく、いつかはしおれてしまう。幸福の実は決して生るものではない。それゆえ、われわれはあえて名利のために働くのではなく、仕事が―与えられた職務が―面白くてしようがないから働くという信条、すなわち、努力が楽しみという境地ですべてを押していきたい。そこに、おのずから自他繁栄の道も拓かれ、名と、利と、徳とが一致する人生も生まれてくるのである。
あせることはない。無理をすることはない。何事も「渠成って水自ずから至る」ものである。一人一業を守って、それに専心打ち込んでおれば、万福招かずして来るものである。町内会で立てられることも、同業者内に重きをなすことも、一社内に確固たる地位を占めることも、みなそれぞれの本業本務を立派につとめ上げてのことである。しかもそれは、自ら求めずして、その人の上におのずと現れてくるのである。
以前からよく、私はこの有志的、政治的進出の可否について、多くの小成功者連から相談を持ち掛けられることがあるが、その都度、いつも私は、だれにも二足草鞋を戒めて、その人の本業精進をつよく希望するのである。
以上、結構書きすぎてしまった。。。
色々ためになることも書いてあったし、なんか改めて人の道とは、といったことを学べた本であった。
本当に知りたかった投資のことが学べたか?というと?といった感じだが、不朽の名著を読むことができて良かったなと思いました。
そんなんで以上☆