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読んだ本の感想と旅行の日記を書いていきます。
後、その他なんかあれば・・・

126冊目:「考えよ! -なぜ日本人はリスクを冒さないのか?」

2014-04-29 15:58:48 | 
総評:★★★☆☆ 読みものとしては普通。
面白い度:★★★☆☆ 普通。
読みやすい度:★★★★☆ すらっと読めた。
ためになる度:★★★☆☆ 普通。
また読みたい度:★☆☆☆☆ 2回目は読まないと思う。


オシム監督が好きなので、かなり前に買っておいた本。
一通り長い本は読み終わったので、軽い本を読んでみる事にした。


この本は2010年ワールドカップ前に書かれた本なのだが、ワールドカップに向けてのチーム戦略や、日本として採用する戦術、そして今の日本チームへの提言、また日本人のメンタリティなどについてが書かれている。

2010年のワールドカップの結果としては、自分としては、かなり良い所まで行ったというのが感想である。
決勝トーナメントに進出し、パラグアイに負けてベスト16で終わってしまったが、最初の予想を覆し、決勝トーナメントまで行ったことは、本当に大きな成果だと思う。
そしてその時のチームを率いた岡田監督は、周りの下馬評を覆し、本当に凄い采配をしたなと思う。

カメルーン戦、オランダ戦、デンマーク戦と、1試合1試合を覚えている。そして最終戦のパラグアイ戦の息も詰まるような熱戦も、観ていた当時の事を覚えている。
そんな当時のワールドカップのアツかった時期を思い出せました。

特に本を読んで感動したこととしてはそこまでないが、最後に面白かったと思う所を抜粋する。


・その目的を達成するには、様々な問題を乗り越えていかねばならない。
 それは、コレクティブ(集団的・組織的)であるための訓練でもあるだろう。戦術的なディシプリン(規律)だろう。対戦相手を徹底的に研究し、あらゆる事態を想定し、準備することである。そして最も大切なのは、自分たちは出来るんだと信じる「自信」である。

・負ける覚悟も含めて、すべてにおいて、完全な準備をしなければならない。準備に「やり過ぎ」などという言葉はないのだ。
 相手チームの選手、戦術のすべてを過去において分析し、あらゆる選手の戦術の長所と短所を並べ、その短所を徹底的に抑える。練習では、できる限り、そういう状況をパーフェクトに作り出して、シミュレーションを繰り返す。相手が嫌なことは何かを知り、徹底して、それをやるのだ。その上でメンタルの心得が必要になってくる。
 敗北は想定しておかなければいけないのだ。負ける可能性もあるという心理的な準備がなければ、何もかもがダメになる。サッカーは如何なることも起きる。

・自分たちには「何ができて、何ができないか」。もしくは相手は「何ができて、何ができないか」。それらを冷静に、客観的に分析することが必要なのだ。~(中略)~
 どのチームにも長所と短所があるのだ。その長所や短所は自分たちのチームのそれと似ているかもしれない。そのすべてを客観的にみることだ。これは、オランダ、デンマーク戦に臨む態度としても、非常に重要になってくる。リスペクトの方法を間違えてしまうと、自分で自分の歯を折ってしまうことがあるのだ。

・そしてさらに、それを具現化するには複雑な話になってくる。トレーニング、会議、作戦、敵の研究、敵のコーチの研究というたくさんの作業を積み重ねなければならない。特に相手のコーチを知ることは重要で、コーチによってチームの方向性がでてくるのだ。
 私は「自分たちのサッカーをするだけです。相手がどうであろうが関係ありません」という姿勢は好きではない。これは相手を過小評価しているということである。

・実は、相手にとって一番強いポイントこそ、裏を返せば、最も傷つきやすいウィークポイントなのである。長所の隣に弱点を飼っているわけだ。

・他人に責任を押し付けているならば、サッカーという仕事をすることはできない。自分へのすべての責任を背負うのがサッカーなのだ。全員で責任を持って問題にとりかからねばならない。場合によっては誰のサポートも受けられない状況下で、たった1人責任を背負って解決しなければならないこともある。
 もちろん、その時に失敗することだってあるだろう。重要なのはトライすることなのだ。日本では、長年にわたって失敗に対し罰を与えるような教育システムになっているように思える。そういう社会性が、ある意味、サッカーでは悪い方向に作用する。
 「失敗をして罰を受けるならば何もトライしたくない」という深層心理が消極的な姿勢につながるのである。「日本人には責任感がない」とは決して言えない。日本人のメンタリティの問題は、「責任感がない」のではなく、その責任感に自分で限界を作ってしまうことではないか。自分で勝手に仕事の範疇を決めてしまい、それを達成すると、「後は自分の責任ではない」と考える。~(中略)~
 ストライカーが、ディフェンスで仕事をしなかった結果、チームがゴールを奪われたら「僕の仕事ではない」「僕の責任ではない」と言い訳をする。だが、それでチームが敗れてしまえば、もはやサッカーではなくなるのだ。自己の限界などを取っ払い、「自分はできる」という自信を責任感に変えなければならない。

・「リスクを負わない者は勝利を手にすることができない」が私の原則論である。リスクとは、負けることによって認識すべきものではない。だが、日本人は、そのようにして生きているように思える。
 誰もが敗戦を恐れすぎているのだ。

・世界の貧しい国々の選手たちは、成功すれば、貧しさから抜け出しまったく違う天国のような生活を送ることができる。成功を手にすることができなければ、永遠に貧しさからは脱出できない。彼らは、サッカーで成功を遂げなければ生活そのものが危うくなるのだ。試合に出られなければすべてを失う。サッカー界から消えた瞬間に、明日の食事に事欠くほどの貧困生活に陥ることさえある。
 だから常に高いレベルを追い求めるのだ。1つをクリアすれば、さらに上へ。あくなき欲望とハングリーなメンタルである。しかし、日本では、たとえ試合に出られなくとも、明日の生活に困るということはない。整備された学校があり、誰でも義務教育を受けることができる豊かな社会である。

・私は監督時代、人前で選手を叱ることも褒めることも、なるべく避けようと心がけていた。それがメディアに伝わったときには、私の行動が歪曲され、「何かを変えよう」というこちらの意図はストレートに響かなくなる。ネガティブなことを言葉にする場合は、タイミング、そして相手のキャラクター、言える相手か、言えない相手かを繊細な心理戦のように見極めなければならない。
 誰を叱ればチームに効果があるのか。私の批判に耐えうることのできる『叱られ役』を戦略的に選ぶことも監督としては大切なのだ。
 そして、どんな時も、その選手のためだけの叱咤となってはならない。全員のために言っているという意識を持たなければ、何かを変える叱咤にはつながらない。そして、その叱咤が、日本人の「無関心」を変えることになるならば、重大な意味を持つ。

・サッカーにおいては誰かがボールを蹴り、それがゴールの上を大きく超えて行ったら、それは褒められたシュートとは言えない。野球ではオーバーフェンスは素晴らしい結果だ。でもサッカーというルールの中では価値観が違う。
 しかし、一部の日本のサッカーの観衆は、ボールがゴールを大きく飛び越しても歓声を送っている。これは、まだサッカーが何であるかが、理解されていない証拠かもしれない。

・選手たちは、自分たちが全てを知っているわけではないことや、自分たちが決してベストではなく、いつもコレクティブなプレーができているわけではないことを学ばなければいけない。監督の指示を尊重し、自分自身と対戦相手を尊重する。
 そして監督が、選手たちが自分たちだけで次に何が起こるかを理解できるまで指導できたならば、チームは次の段階へ一歩進むことができるだろう。極端な表現をすれば、監督が選手に考え方を真に伝えることができたならば、監督の仕事は半分終わったことを意味する。


書いてみると結構タメになることが書いてあったなあ。
そんなんで、次もオシム本になると思います。以上☆
コメント
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