
手塚悦子画
今日、2月9日は手塚治虫先生がお亡くなりになった日です。
1989年2月9日
享年60歳
あれから、もう25年経つのですね。
そこで、今日は奥様の手塚悦子さんが書かれた「夫・手塚治虫とともに(木洩れ日に生
きる)」というご本をご紹介したいと思います。
私は、悦子さんのお写真を見て、「リボンの騎士」のサファイアにそっくりだなと思い
ました♪
手塚先生は漫画の神様として多大な足跡を残されましたが、夫として、父親としてはど
うだったのでしょう?
手塚先生は仕事仕事の連続で、家族と会話する事はおろか、顔を合わせるのでさえ、週
に2、3回くらいだったそうですが、家族思いの優しい人だったようです。
手塚先生と悦子さんは、昭和34年10月4日に兵庫県宝塚市の宝塚ホテルで、結婚式
を挙げられたそうです。
それはお見合い結婚だったのですが、手塚先生と悦子さんは親戚で、幼い頃に一緒に遊
んだ事もあったそうです。
その頃、手塚先生は超売れっ子漫画家で、東京と、実家のある宝塚を行ったり来たりし
ていて、女優のタマゴやピアニストらと、2、3回、お見合いをされた事もあったそうで
すが、どれもうまくいかなかったとか。
そんなある日、実家に帰って来た手塚先生にお母様が、「こんな写真を預かっているの
だけど」と言って見せたのが、悦子さんのスナップ写真でした。
それで、手塚先生はお見合いをするのですが、超売れっ子漫画家として忙しく、何度も
延びてしまい、話があって、2ヶ月後にようやく会う事が出来たそうです。
その時の印象を、悦子さんは、こう書かれています。
第一線で活躍している漫画家なので横柄な人ではと想像していたのですが、豊中の我が
家に母親と一緒に訪ねてきた青年はきっちりと背広を着こみ、偉ぶったところの一つもな
いおとなしいお坊ちゃまという感じでした。
子供の頃のおちゃめな印象はひとつもありませんでした。
座布団に正座をして最後まで足をくずさず、時々見せる母親にたいしての優しい言葉遣
いや仕草にとても好感を持ちました。
それから、しばらくお付き合いをする事になったそうですが、デートの約束をしても、
数回だけで、しかも逢う日を決めても1日、2日と延びてしまい、ようやくデート出来た
と思ったら、手塚先生が喫茶店で、こっくりこっくり居眠りをはじめ、悦子さんはただ黙
って、寝顔を見つめる事もあったそうです。
ちなみに、デート中、手塚先生がしゃべったのは、漫画家の生活や編集者のこと、アシ
スタントの男性たちとの夜も昼もない仕事のこと、将来アニメスタジオを建てる大きな希
望が主だったとか。
しかし、逢えただけでもいい方で、それから何度もデートをすっぽかされてしまい、悦
子さんは本当に私と結婚する気があるのかしらと不安になり、東京の仕事場を見に行き、
それで手塚先生とのご結婚を決意されたそうです。
マンガを語る時の情熱、マンガそのままのヒューマニストであること・・・優しい人柄
に私は少しずつ惹かれていったのです・・・(手塚悦子)
そして、昭和34年10月4日にご結婚される訳ですが、手塚先生と悦子さんは新婚初
夜にこんな夢を持っていたそうです。
手塚先生は、洋画のワンシーンのように純白のウェディングドレスを着た新妻を抱き上
げてベッドに歩む姿を、悦子さんは素敵な彼に抱かれて真っ白なベッドの上でファースト
キスを、と・・・
ところが、山中湖畔の新婚初夜の宿にはベッドはおろかソファーさえなく、ただ広々と
した畳の部屋が広がっているばかりで、二人とも顔を見合わせて吹き出してしまったとか
♪
そうして、新婚生活が始まるのですが、家には常に2、3人のアシスタントがいて、お
まけに締め切り間際には編集者が3、4人は詰めかけていて、二人っきりでいる時間は皆
無に等しかった。
ある日の早朝、悦子さんがネグリジェのまま、階下のトイレに行こうとしたら、編集者
が階段に腰掛けていて、あわてて部屋に戻ったこともあったとか。
そういう訳で、いろんな人が出入りしていたので、鍵をかけてなく、泥棒に何回も入ら
れ、悦子さんがとても大切にしていたサファイアのエンゲージリングや金のネックレスや
時計を盗まれた事もあったそうです。
しかし、仕事が忙しくて、何人も人が家にいたとすると、夜の生活はどうされていたの
でしょう?
知人に「よくお子さんを3人も作る時間がありましたね?」と、聞かれた手塚先生は、
「あんなの5分もあれば作れますよ」と答えられたそうですが、これはおそらく強がって
みせただけではないでしょうか?
だって、それでは前戯もなしに、いきなり本番て訳じゃないですか?
しかも、たった5分?
それで、手塚先生も悦子さんも満足していたとは、とても思えないです。
お二人とも可哀想・・・
私だったら、もっと好きなように、じっくり私の体を楽しませてあげたいな・・・
それはさておき、手塚先生は仕事がどんなに忙しくても、クリスマスとお正月は家族サ
ービスに努めてらしたそうです。
また、手塚先生は忙しくて、子供の面倒を見れないぶん、あまり叱らず、とても寛容だ
ったとか。
でも、その理由のひとつは子供相手に仕事をしていたので、子供の気持ちを大切にした
い思いもあったのだと思います。
それをうかがい知るのに、こんな有名なエピソードがあります。
家族皆で、テレビアニメの「鉄腕アトム」を観ていた時、長男の眞さんが、チャンネル
を裏番組の怪獣モノに替えてしまい、悦子さんは「どうしてお父様のアトムを観ないの」
と激しい口調で叱った事があったそうです。
けれども、手塚先生は「子供の見たいものを見せてあげなさい。
子供はよくわかってる。アトムが面白くないから見ないんだ」と、子供の気持ちを重視
し、反省材料にされたとか。
この手塚悦子著「夫・手塚治虫とともに(木洩れ日に生きる)」を読んで、仕事は言う
に及ばず、家庭人としても素晴らしかった手塚先生の一面を知る事が出来、尊敬の念をい
っそう強くした私でした♪