<今日読んだ箇所>
「キリスト教神学入門、A・E・マクグラス著」:51~57頁
<恩恵論>
この恩恵論というものは恵みについての教理です。
この”恵み”に対するものとして”行い”があります。
410年代にこのことに対する激しい論争がありました。
英国出身でローマを拠点としていた禁欲的な修道僧ペラギウスは、人間の道徳的責任の必要性を強く主張しました。
彼は、旧約聖書の律法やキリストの模範に照らして絶えざる自己改革の必要性を主張しました。
この人の主張は、”行い”に重点が置かれていると思います。
ペラギウスの主張は、キリスト教は自律の宗教だということです。
自律の宗教というのは、人間が自分の救いについて主導権を取れるという考えのことです。
それに対し、アウグスティヌスは、反論しました。
アウグスティヌスは、キリスト教的生活のあらゆる段階において、その初めから終わりまで、神の恵みこそが主導権を持つものだと主張しました。
人間は救いに向けての第一歩を踏み出すのに必要な自由を持っていません。
人間は堕落しており、その堕落からの救いは、神の恵みのみによって与えられるという考え方です。
また、アウグスティヌスは、この考え方を発展させました。
神は救われる者を「予め選択している」と言う考え方に発展させました。
これは、予定論と言われます。
新約聖書にも、この思想がほのめかされています。
「キリスト教神学入門、A・E・マクグラス著」:51~57頁
<恩恵論>
この恩恵論というものは恵みについての教理です。
この”恵み”に対するものとして”行い”があります。
410年代にこのことに対する激しい論争がありました。
英国出身でローマを拠点としていた禁欲的な修道僧ペラギウスは、人間の道徳的責任の必要性を強く主張しました。
彼は、旧約聖書の律法やキリストの模範に照らして絶えざる自己改革の必要性を主張しました。
この人の主張は、”行い”に重点が置かれていると思います。
ペラギウスの主張は、キリスト教は自律の宗教だということです。
自律の宗教というのは、人間が自分の救いについて主導権を取れるという考えのことです。
それに対し、アウグスティヌスは、反論しました。
アウグスティヌスは、キリスト教的生活のあらゆる段階において、その初めから終わりまで、神の恵みこそが主導権を持つものだと主張しました。
人間は救いに向けての第一歩を踏み出すのに必要な自由を持っていません。
人間は堕落しており、その堕落からの救いは、神の恵みのみによって与えられるという考え方です。
また、アウグスティヌスは、この考え方を発展させました。
神は救われる者を「予め選択している」と言う考え方に発展させました。
これは、予定論と言われます。
新約聖書にも、この思想がほのめかされています。