ふかごろうキリスト教神学日記

キリスト教の神学について、ふかごろうが学んだことを記して行こうと思います。

神の普遍的啓示(一般啓示)

2007-05-27 23:27:23 | キリスト教神学第1巻
<5月22日~5月27日に読んだ箇所>
「キリスト教神学第1巻、ミラード・J・エリクソン著」:195~223頁

<神の普遍的啓示(一般啓示)>

今日の箇所では、神の啓示について書かれていました。

啓示は、2種類に分かれます。

一般啓示と特別啓示の2つです。

一般啓示とは、例えば自然界に表れるすばらしさ、精巧さ、などから得られる啓示です。
たとえば、人間の目を考えてみると、それは非常に精巧にできていることが分かります。
この精巧さは偶然では無く、神の作であると見る人もいると思います。
このように神の業を自然から読み取るとそれは、一般啓示になります。

もう一つの啓示は、特別啓示です。

これは、聖書を通して与えられる啓示です。

ポストモダンと神学

2007-05-21 20:59:17 | キリスト教神学第1巻
<5月15日~5月21日に読んだ箇所>
「キリスト教神学第1巻、ミラード・J・エリクソン著」:174~194頁

<ポストモダンと神学>

ポストモダンを語るには、まずモダニズムを考えなくてはなりませんね。
モダニズムの生みの親はデカルトであると言うのが一般的です。
デカルトは、「我思うゆえに我あり。」と言う言葉を残しています。
ラテン語だと「コギトエルゴスム」となります。
有名な言葉なので、聞いたことがある人が多いと思います。

モダニズムの特色は、なんといっても合理的であると言うことでしょう。
人間の理性を尊重し、合理的に活動するのがモダニズムと言えます。

ところが、近年、モダニズムの時代が終わって、ポストモダンの時代になったとの認識が広がっているようです。
合理性を追求していっても、それがもたらしたものは、第二次世界大戦の大量殺戮など、不毛な血の通わない歴史でありました。
その反動が今の時代に来ています。

神学とその言語

2007-05-14 13:17:06 | キリスト教神学第1巻
<5月11日~5月14日に読んだ箇所>
「キリスト教神学第1巻、ミラード・J・エリクソン著」:146~173頁

<神学とその言語>

こにゃにゃちわ。みなさん。

今回、読んだ箇所には、「神学とその言語」について書かれていました。
なんだか、ちょっと難しそうなタイトルです。

ちょっと部分的に引用してみますね。

>宗教的言語はしばしば感覚的経験を超えるために、その現実が疑問視される。
>「経験的検証」(empirical verification)を求める現代人の知性にとって、この種
>の言語は納得の行かないものと見られる。宗教的言語が直接的検証にかけられ
>ないのは確かである。だが、宗教的言語は、幅広い総合的体系によって認識上
>意味あるものとなりうる。そして、それは、科学的仮説のように理解とコミット
>メントを呼び起こす一定の機能を果たすのである。

なんだか、「ふにゃ?」と言う感じです。
まずい、だんだん難しくなってきた。

キリスト教メッセージの今日化

2007-05-10 14:58:10 | キリスト教神学第1巻
<4月26日~5月10日に読んだ箇所>
「キリスト教神学第1巻、ミラード・J・エリクソン著」:122~145頁

<キリスト教メッセージの今日化>

今回の箇所には、キリスト教メッセージの今日化ということについて書かれていました。
イエス・キリストが生きていた時代から、もう2000年ぐらい経過しています。
なので、当時は当たり前だったことが、当たり前では無くなってきています。

そこで、キリスト教メッセージの今日化と呼ばれることをします。

神学を今日化するには、2つのアプローチがあります。

一つは、「改変者」と呼ばれるアプローチ。
もう一つは、「翻訳者」と呼ばれるアプローチ。

翻訳者と呼ばれるアプローチは、翻訳をするように古代の神学の内容を変えずに、できるだけ元の意味を残そうとするものです。
改変者とは、翻訳者より一歩進んで、時代に合わせ重大な内容の変更を伴う改変をしようとするものです。