ふかごろうキリスト教神学日記

キリスト教の神学について、ふかごろうが学んだことを記して行こうと思います。

キリスト教綱要第4篇、第17~20章

2019-01-17 22:18:19 | キリスト教綱要第4篇
<2018年10月17日~2019年1月5日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第4篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
391~572頁

<第4篇、第17~20章と訳者あとがき>

今回の箇所には、サクラメントが2つだけ有効だと言うことが書かれていました。
洗礼と聖餐、の他は、サクラメントとして認められないと書かれていました。

<読了感想>

今回で、ようやく「キリスト教綱要」を読み終わりました。
約9年半の時間がかかりました。
気の長い話です。
途中、何度も読むのをくじけそうになりました。
一日、2ページ読むのがやっとと言う日もありました。

基本的にカルヴァンってプロテスタント神学の基礎を作った人です。
今となっては、プロテスタントでは当たり前になっている事柄が書かれています。
カルヴァンが生きていた当時は、きっと斬新な書物だったのでしょう。

なんか、この本を読んでいるとカルヴァンが目の前に居て、僕に熱弁をふるっているようにも思えました。

ま、とりあえず、読み終えて良かった。

キリスト教綱要第4篇、第7~16章

2018-10-16 17:28:44 | キリスト教綱要第4篇
<2017年12月13日~2018年10月16日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第4篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
124~390頁

<第4篇、第7~16章>

今回の箇所には、政教分離のこととか、サクラメントのこととか、
幼児洗礼のことなどが書かれていました。
カルヴァンは、政教分離を主張しておりました。
幼児洗礼に関しては、カルヴァンは認めておりました。


<働かざる者食うべからず>

今回の箇所で、特別に思うところがありましたので、文章にしました。
以下に記します。

----------記----------

ゴスペルシンガーのMigiwaさんの歌に「15年後のことだった〜♪」(CD『蟻と宇宙』の中の曲『赤いのが欲しかった』)と言う歌詞があるけど、昨日(2018年10月14日)、僕も同じような体験をしました。
今から15年ほど前、洗礼を受ける前、聖書を初めて通読した時、テサロニケの手紙第二 3章10節に、「働きたくない者は食べるな」と書かれているのを読んだのです。
僕自身も母から「働かざる者食うべからず。」と言われて育てられました。
僕は、その当時(聖書通読を初めてした時)、働いていなかったので、この言葉が心に引っ掛かりました。
それで、聖書を通読して、しばらく経ち、教会へ通うようになってから、先輩の信徒の方にここの部分の解釈は、どうしたら良いのか聞いてみました。
そうしたら、その先輩の信徒の方は、そういう言葉が聖書にあることを知らなかったのです。
その信徒の方は、しっかり働いてきた方だったので、その言葉自体、心に残らなかったのだと思います。
この箇所の解釈が分からないまま、その後何年か経ちました。
それで、別の方にも、聞いてみました。
そうしたら、その方は「働かざる者食うべからず。」というのは、レーニンが聖書を悪用して言った言葉だと言っていました。
でも、その解釈については、その方も分からないようでした。
(そもそも、唯物論者のレーニンが聖書の言葉を使っているということ自体がおかしいのだが...。)

それで、昨日、『キリスト教綱要改訳版第4篇』を読んでいました。
そうしたら『キリスト教綱要改訳版第4篇』ジャン・カルヴァン著、渡辺信夫訳、第16章の「29」、381ページにこの箇所の解説が載っていました。
「働きたくない者は食べるな」という言葉は、全ての人に当てはまるわけでは無い、という意味のことが、書かれていました。
この箇所には、働くという行為は、例えば子どもには、当てはまらないと書かれていました。
なるほどと思いました。

このカルヴァンが書いた内容をふまえ、僕は、「障がいなどがあり、働きたくても働けない人には、この言葉は当てはめられない。」と解釈致しました。

僕の心に引っ掛かっていた疑問が、15年経って解決しました。

キリスト教綱要第4篇、第3~6章

2017-12-12 23:28:44 | キリスト教綱要第4篇
<2017年7月7日~2017年12月12日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第4篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
54~123頁

<第4篇、第3~6章>

今回の箇所、特に6章には、教皇制度に対する批判が書かれていました。
なぜ、ローマ教会がキリスト教の頂点に立つのか。
聖書に教皇と言う制度に当たるものが書かれているのか。
それに対し、カルヴァンは、教皇制度は、聖書に根拠がないと主張していました。
カルヴァンは、小さな集団において、リーダーのような存在が立てられるのは良いが、全てのクリスチャンの頂点に立つような人を立てるのは、良くない、と主張しております。

キリスト教綱要第4篇、第2章

2017-07-06 23:49:09 | キリスト教綱要第4篇
<2017年4月22日~2017年7月6日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第4篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
40~53頁

<第4篇、第2章>

今回の箇所には、カトリックの教会の批判が載っていました。
カルヴァンが生きていた当時のカトリックは、腐敗していたのでしょう。
今のカトリックは、当時ほどは、腐敗していないと思います。

キリスト教綱要第4篇、第1章

2017-04-21 21:40:08 | キリスト教綱要第4篇
<2017年4月10日~2017年4月21日に読んだ箇所>
「キリスト教綱要 改訳版 第4篇」
カルヴァン著
渡辺信夫訳
1~39頁

<第4篇、第1章>

今回の箇所は、教会について書かれていました。
教会には、救われた人だけではなく、救われてない人も存在するとのこと。
ただ、それを人が判断してはいけないと書かれていました。
人を裁いてはいけないのです。

あと、教会員となってから、罪を犯す場合もあるとのこと。
僕もそうだと思います。
ダビデは救われていたと思いますが、重大な罪を犯しました。
姦淫と、殺人の罪を犯しました。
これは、死罪に当たります。
でも、ダビデは、救われたのです。

なので、人が何か罪を犯しても、その人が罪を認め反省するならば、教会は、赦しを与えなければなりません。